「日活ロマンポルノを作り出したのは、今村昌平だった」

早稲田の演劇博物館に、ある所から日活九州支社の1,000枚近くのプレスシートが寄贈されていた。もともと、映画の宣伝用のプレスシートについては、評論家で早稲田の文学部の教授だった飯島正さんから大量の洋画のものが寄贈されていたが、いずれもまだ未整理で、とりあえずその一部の整理ができたとのことでイベントが行われた。

『プレスシートから読み解く日活ロマンポルノ』で、関係の研究者の他、1975年に日活に入り企画部で活躍された成田尚哉氏、もう一人は1985年ににっかつに入り宣伝部で実際にプレスシートも作ったこのとある早乙女朋子さん。

お二人からは、日活の経済的苦境(給料はほとんどなく、夏にはスイカ代、年末にはモチ代という一時金が出る程度と言う信じがたい状況だったこと、本当でしょうかね)と共に、その活気。

特に成田氏は、『花の応援団』と『天使のはらわた』を担当したが、どちらも東映の方が先に来ていたが、東映のは原作者の意図の沿う企画ではなく、日活の成田氏や上司三浦朗プロデューサーらの熱意でどちらも日活で映画化されたこと。

石井隆は、『天使のはらわた』についてほとんど文句を言わず、会社の意図を理解してくれたというのは意外だが、彼は長く雑誌等で仕事をしてきたからだと私は推測する。

実は、私は一度だけ石井隆氏に会ったことがある。

それは、1966年の秋で、私が早稲田大学映画研究会を辞めると言いに行った日で、「映画を見てお話してる人いるだけの映研に飽き足らず、肉体を動かす劇団演劇研究会に入った」のである。

その日の夕方、汚い部室にひどくおじさん臭い男がいて、それが石井隆さんだった。

彼は、早稲田のシナリオ研究会にいたが、そこが完全に革マル(革命的マルクス主義派)のサークルになりその支配が嫌になったので、映研に入りたい」と言って来たのだ。

当時、彼はアルバイトとしてピンク映画のカメラマンをやっていると話したが、後に彼と一緒に仕事をしたことのある人の話だと石井氏はかなり変わった人で、「事件現場の生写真のコレクターである」とのことだった。

早乙女さんからは、「今考えればほとんどセクハラの日々だったが、非常に面白かった」とのこと。数少ない女性スタッフの一人としてポルノ女優の相談に乗ったこともあったとのこと。

最後、私は質問で、「今村昌平の1966年の『人類学入門・エロ事師たち』は、今考えるとロマンポルノであり、その玄関口まで行っていたこと。

この映画のセカンド助監督は田中登で、後に同じ大阪を舞台にした『㊙メス市場』を作ること。ロマンポルノ最多登板の西村昭五郎の監督デビュー作『競輪上人行状記』のシナリオは今村昌平であること。ポルノと銘打った作品は東映のニューポルノの方が早かったが、東映には今村のような監督がいなかったので路線にはならなかったと思ってきたが、実際に、日活の内部の人はどう考えていたのか」お聞きした。

すると成田氏からは、「もちろん今村昌平本人はいなかったが、スタッフには一緒にやった人たちも多く、常に今村は意識していた」とあった。

早乙女さんからは、「私は日本映画学校では桂千穂さんに習ったが、実際に学長の今村さんとは飲んだこともあり、大きな影響を受けているだろう」とのこと。

作家や俳優も単独で生まれるものではなく、撮影所の歴史や伝統で育まれてくるものであることを再確認した。

戸山キャンパス映像実習室

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