『新・正午浅草 荷風小伝』

新と付いているのは、作者の吉永仁郎が20年くらい前に、山田吾一の一人芝居として書いたものを民芸用に書き直したからだそうだ。
しかし、出演者は多くなく、荷風の水谷貞雄、父久一郎の伊藤孝雄、元妾のお歌・白石珠江、『墨東奇譚』の主人公になるお雪・飯野遠らである。
昭和32年、市川の荷風の家に、久しぶりにお歌がやってくるところから始まる。
荷風は、一人暮らしで、自作の釜飯を作っている。
戦後、流行作家になった荷風は、昼間は浅草に出かけ、ストリップ小屋を訪ねるなど、気ままな暮らしをしている。
戦前から、風紀紊乱を問題にされていた荷風にとって、戦争に向かう社会は憎いもので、官僚、軍人、そして時局に便乗する菊池寛は、文学者の風上にも置けない男だった。
今見ると、荷風が大正時代に、父から不当に叱責されているのは、今から見ると当時と今の社会の価値観がまるっきり変わったことがよくわかる。
政治家、官僚、学者、経営者など、世のため、社会のため、国のために尽くすことが人間の責務で、それをせず安穏として生きることは無意味なのである。
今では、おかしいことを言ったりやったりしてテレビ等に出ることが至上の価値なのらしいのだから本当に驚いてしまう。
お父さん、あんまりだよと思うが、明治、大正はそうした時代だったのだろう。父久一郎は、欧米に留学したこともあるインテリだったのだから本当に信じがたいが、そうした中で、落語家から狂言作者等になった荷風は、本当に凄いと思う。
それは、韜晦のすごさと言うべきだろう。
この劇では描かれていないが、戦前、戦中に荷風が、体制に背を向けていられたのは、父が残した遺産や株式の利得があった。
多くの文学者が、文学報国会に協力せざるを得なかったのは、新聞、雑誌、映画等が減らされ、報国会しか発表の場がなかったからだが、資産に恵まれていた荷風は、迎合する必要がなかったのだ。
だが、皮肉にも日本の敗戦は、株は紙切れになり、資産も減額してしまい、荷風は働かざるを得なくなり、戦時中に書き溜めていた小説を出し金を得たのだ。
最後、市川の家で、荷風は一人死ぬ。妻も子も持たず、誰にも迷惑をかけないなので、自由で悔いのない死だった。
日本の近代に生まれた、稀有の存在と言うべき自由人の死だった。
このよくできた劇に一つだけ文句を言いたい。
それは、荷風とお歌が飯を食うところで、荷風はただ食べるが、お歌は、食べる前に合掌して「いただきます」を言う。
この食事に「合掌」は、関東にはなかった風習で、私が最初に見たのは2001年のことで、関西出身の人だった。
元芸者のお歌は、東京の出身だったので、この昭和30年代に、女がするのはおかしいのである。
紀伊国屋サザンシアター

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