『田宮二郎 壮絶!』 升本喜年(清流出版)

杉田駅の古本屋にあったので買う。
升本喜年は、松竹大船のプロデューサーで、1970年代松竹の映画制作本部長が三嶋与四冶の時代、その下で大作映画を作った人。
そこで大映を首になった田宮二郎と出会う。
その後にテレビでも『白い秘密』(TBS)など田宮二郎のドラマを作る。

映画時代の大作には『人生劇場』『花と龍』『宮本武蔵』などがあり、いずれも監督は東映の加藤泰だった。
当時、加藤泰の大ファンであった私は、勿論加藤の新作が見られるのはうれしかったが、それがなぜ松竹なのか、どうも腑に落ちなかった。
その内実は、大映、日活が崩壊し、田宮二郎、高橋英樹、渡哲也らのスターが遊んでおり、これを使えば男性大作映画ができると読んだ松竹「三嶋軍団」の意向だったのだ。
1970年代に松竹映画が、山田洋次の『男はつらいよ』やドリフターズ喜劇と大作路線で、ある種活気があったのは、この三嶋軍団の力で、それが城戸四郎社長の大船調を上回っていたからと今回初めて知った。

松竹に出るのと平行し、テレビのクイズ番組『タイム・ショック』の成功と並び、田宮はTBSでドラマ『白い影』のヒットにより、「白いシリーズ」として定着ししてゆく。
それは、映画『不信のとき』でのポスター序列事件で大映永田雅一社長の怒りを買い5社協定で映画界を干された田宮の完全な転進と成功だった。
だが、最後フジテレビでの『白い巨塔』を撮り終わった後、田宮は自宅で自殺する。
それは、躁鬱病と詐欺師グループによるM資金融資等の詐欺に引っかかったことの結末だった。

以前、升本が山田五十鈴のことを書いた本『紫陽花』を読んだことがあるが、それよりこの本は落ちる。
だが、1968年に大映を首になった時の、永田雅一社長とのやり取りの詳細と、升本が1976年にTBSのドラマ『白い秘密』の北海道ロケ中に、田宮がいきなり自分が監督をすると言い出したとき、升本が田宮の自宅に行き、田宮を説得し事態を収拾したいきさつは大変面白い。

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