「年齢を誤魔化して陸軍に入ることは可能だった」そうだ 黒澤勇氏の上司の日高藤吉郎氏

昨日は、朝日カルチャーセンター横浜で「明治日本の戦争と横浜」を聞きに行く。
横浜開港資料館の吉田律人さんの話で、幕末の開港から、明治維新、そして日清・日露戦争期での横浜と戦争との関わりである。

幕末で重要なのは、横浜の治安維持に駐屯地「太田陣屋」が置かれたことで、場所は野毛山の下、日ノ出町一帯のようだ。
ここで面白いのは、幕府はそれを自らではなく、福井藩にやらせていることで、江戸時代の幕藩体制と言うのは、そうしたものだったようだ。中央集権的ではなく、むしろ地方自治的であったようだ、江戸時代というのは。
そして横浜の男子は、徴兵されると当初は東京の連隊に入団していたが、後には甲府49連隊に入るようになる。
この辺は横浜線から中央本線を使って兵員輸送ができるようになったからかもしれない。

さて、質問の時間があったので、黒澤明の父・黒澤勇氏の上司で、共に日本体育会(今の体協とは無関係のスポーツセンターのような組織)を作り、これが現在の日本体育大学の素となる組織を作った日高藤吉郎なる「快男子」のことについて聞く。
この日高は、藤吉郎の名でもわかるように、一種の山師のごとき人間で、現在で言えば「軍事オタク」で、16歳だったのに年齢を誤魔化して陸軍に入り、西南戦争に従軍してしまったという信じがたい人物だが、「そんなことがあり得たのか」お聞きした。
お答えは、「当時も徴兵年齢は20歳だったが、戸籍制度が不備だったので、20歳以下で入隊したことはありえただろう」とのことだった。

この日高氏の下で、黒澤勇氏は、日本体育会のナンバー2で、黒澤家は裕福で、兄や姉は、高輪の私立の森村学園に行っていた。
ところが、大正3年に開催された「大正博覧会」への出展の赤字の責任を取らせられて、黒澤勇氏は会をクビになり、家は東大井から小石川に引っ越すことになる。この勇氏のクビの過程は、映画『悪い奴ほどよく眠る』にヒントを与えていると思われる。

また、晩年の映画『夢』の冒頭の「ひな祭り」は、東大井の裕福な時代への黒澤明の追憶である。
黒澤家は、貧乏になってしまい、京華中学から東京芸大を受けた黒澤明は、私立の美術学校には行かず、プロレタリア美術研究所に行き、左翼運動をするまでになる。
黒澤の『天国と地獄』などに見られるような、金持ちや資本家への憎悪は、この若き日の貧困生活から起因していると思われる。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする