大阪都構想は、発想が間違っている

来月に、また大阪都構想について、住民投票が行われるとのこと。
大阪、そして関西圏を発展させるために、大阪を都にするという発想は、完璧な間違いである。
「文化音痴」の日本維新の会だから、仕方ないが、行政の制度を変えれば、その地域が発展するとい考え方がまず第一に間違っている。
江戸時代のことはともかく、明治以降の日本の近現代で、関西圏が首都圏を上回ったのは、大正末、昭和初期しかない。
原因は、言うまでもなく関東大震災で、首都圏は壊滅し、経済的、文化的にも多くのものが関西圏に移動した。
谷崎潤一郎が大阪に移住したのが有名だが、映画界でも、松竹、日活等は製作拠点を関西に移し、溝口健二らの監督も、関西のスタジオで映画を作るようになる。
音楽的にも、大阪、神戸ではダンスホールが盛んにでき、ジャズ・バンドが興隆し、その中から作曲家服部良一が出てきた。もともと宝塚と大阪(松竹)に少女歌劇があり、これに服部らは参加する。
そうした「大阪モダン」を代表するのは、溝口健二の名作『浪華悲歌』で、そこには近代的マンション、豪華デパートとレストランやキャバレー、さらにモダンな地下鉄が出てくる。それはモダン都市に徘徊する不良少女、少年のいきがった果ての悲劇なのだ。
当時、関西圏には、日活、松竹の大スタジオの他、新興キネマ(京都)、JO(京都)、さらにサイレントの全勝キネマ(極東キネマ)等があり、極東キネマでは、ロボットが侍と戦うというシュールな時代劇も作られていた。
当時、日活にいた円谷英二が、こうした奇妙な作品を見た可能性があり、それは後の彼の『ゴジラ』につながるものだと思われる。
このように、西欧の大衆文化の波は、昭和初期には、最初は東京ではなく、大阪や神戸に来たはずで、それは関西圏の文化的、さらに経済的興隆になったのだ。
だが、1931年の満州事変から始まり、満州国成立、日中戦争から太平洋戦争に行く中で、日本経済は急速に軍需経済になり、それは「事変景気」となって、日本を世界で最初に大恐慌から脱出する国にさせる。
その中で、東京、横浜、横須賀等は、軍需経済都市となって大きく発展してゆく。
戦時中、米軍に徹底的に空爆された東京、横浜に対し、戦後の政治的意義の少なかった大阪の空襲はそれほどひどくはなかったようだが、それでも十分に破壊され、その復興には1960年代初頭までかかる。

さて、戦後と言わず、近代以降で、関西発のものと言えば、漫才、浪花節と音頭、宝塚歌劇、焼き鳥とお好み焼き、カラオケ、ビニ本、ノーパン喫茶からノーパンしゃぶしゃぶ、関西風全ストリップなど、きわめて大衆文化的で、底辺的、アジア的な文化である。
今日、漫才を起源とする吉本的お笑い、焼き鳥、カラオケなくして日本の娯楽はあり得ない。
そのように、関東の上から来る文化とは異なる、下層的文化・芸術が、大阪、そして関西圏の文化の強みだと私は思う。
その点では、前の天皇陛下が譲位されたとき、
「なぜ上皇陛下夫妻のお住まいを京都に!」という運動が起きなかったのか、私は非常に不思議で、大変残念に思う。
京都御所の奥あたりに新宮殿を造り、そこにお住まいいただければ、「内外に日本の文化、歴史の源は、東京ではなく、京都、関西だ」と宣言できたと思うのだ。
こうした京都や大阪の文化を発祥とし、東京にはないものを基に関西圏の経済的発展を目指すのが、長い目で見た関西圏の発展の道筋だと思う。
歴史と文化を知らないと言うことはまことに恐ろしいことである。

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