友田恭助を思い出す

友田恭助を思い出すと言っても、その名前を知るだけである。
彼が、何者であるかは、ウキペディアに出ているので、参考にしてほしいが、劇団文学座の創立者の一人である。
彼は、戦前の新劇界で最高の男優だったらしいが、1937年に徴兵されて上海事変で死んでしまう。
なぜ彼を思い出したかと言えば、実は先日、私の親戚の女性が亡くなられたと聞いたからだ。
100歳を越える大往生だったようだが、実はその方の夫が、同じく上海事変で亡くなったいるからだ。
戦前、満州事変から日中戦争にいたる過程で、当初は日本軍は強くて、中国軍を圧倒していた。
ただ、この上海事変では、日本軍は大変に苦戦し、クリークやトーチカ戦で多くの死者を出す。
この苦戦が、後に「南京大虐殺」に至るのは、よく知られていることだろう。
この裏には、中国軍(中国国民党)には、ナチスドイツが援助、指導していたというのだから、本当に嫌になる。
ナチが、なぜ中国軍を指導していたかは、ソ連への問題があった。
ナチスは、最大の敵としてソ連を見ていたので、中国軍を援助していたのだ。
このナチスドイツと「三国同盟」を結んだのだから、日本の外交はどうなっていたのかと言いたくなる。

さて、友田恭助の演技だが、もちろん見たことはない。
だが、彼の妻だった田村秋子の言葉だと、非常に自由奔放なもので、台詞がきちんと入っていず、その場で変えてしまうようなこともあったらしい。
対して、田村秋子さんの演技は、きわめて正確で、楷書の演技だったようだ。
言って見れば、勝新太郎と市川雷蔵の演技の違いだろうか。

彼女の演技は、1950年代の映画で見ることができる。
『本日休診』と『こころ』である。
また、どういう経緯からは忘れたが、田村秋子の姪の娘と言う方とお見合いをしたことがある。
さすがに、その姪の方も、娘さんも大変におきれいだった。
今は昔の話である。

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