『幕末純情伝』

新橋演舞場の、つかこうへい作・演出、石原さとみ主演の『幕末純情伝』を見に行く。
新選組の沖田総司が、実は男で坂本龍馬に恋していたという奇想天外な設定だが、今回はさらに坂本龍馬が実は女性だったとなっていた。
坂本役は、元宝塚の真琴つばさで、両者が女性というのには、作品の意味がなくなっていると思うが。
石原では、観客が呼べないので、元宝塚の真琴をキャスティングしたのだろうが、坂本も女性では、純情は成立しない。
まるで、男だけの集団である新撰組自身が、男だけ故に彼ら自身が純情になっているように見えた。

石原さとみは可愛いが、発声と滑舌が全く出来ていなくて、マイクで声を拾っているが、半分くらいしか台詞が理解できない。
牧瀬理穂、藤谷美和子ら多くの女優が演じてきたが、彼女たちの台詞は聞こえたのだろうか。

今回、つかの劇を見て思ったのは、「彼はSCOTの鈴木忠志の直弟子だな」ということだ。つかは、学生時代に早稲田小劇場に出入りし、鈴木から大きな影響を受けている。
鈴木忠志は、「演劇にとって最重要なのは、役者の演技を見せることで、テーマ、物語等は演劇の本質ではない」としている。
鈴木の禁欲的訓練主義を除き、サド・マゾゲームを入れれば、作品の持つ批評性と言い、つかの芝居になるというのが私の考えである。

つかも、やろうとしていることは、役者の演技を見せることである。
山崎銀之丞をはじめ男優たちは嬉々として奇想天外な劇を演じている。
そこでは、新撰組の人物もただの記号と化している。
個々の人物がどうであるか、などどうでも良いのである。なぜ、坂本龍馬が憲法第9条を唱えるか、など意味はないのだ。
要は、役者がカッコよく演じられればそれで良いのだ。
だが、石原がこのザマでは、劇は無意味化していた。

内容は、結局は「日本人論」で、その意味で「つか芝居」は、すべて日本人論である。
私の隣のお客さんは、「全く意味が分からないけど、忙しく煩くて眠る暇もないわね」と言っていたが、実に的を射た批評だった。

石原さとみは大いに問題があったが、真琴つばさは、とてもカッコ良かった。

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