一文字埠頭

現在、横浜のみなとみらいの新港地区のワールド・ポーターズがあるあたりは、昔は「一文字埠頭」と呼ばれる港湾施設だった。
横に一文字に伸びた埠頭だったので、一文字と名づけたのである。
だが、ここは狭い場所一杯に上屋・倉庫が建てられ、道路は極めて狭隘で、ひどい埠頭だった。
「何で、こんなにひどい施設を作ったのか」不思議に思い、前に港湾局に古くからいる方に聞いたことがある。

その人が言うには、
「あそこは昭和38年の横浜市長選挙のとき、半井清市長が、本当は1期で辞め、後任は平沼前市長時代の助役だった田中省吾氏に譲る約束で、昭和34年の市長選挙に出て当選した。そのため、田中氏は、一時的に商工会議所会頭になり、4年間を待った。
もともと半井氏は、戦時中の官選市長で、戦後は公職追放されて、何とか横浜市長返り咲きたくて、横浜の自民党幹部と交渉し市長にしてもらったのだ。
ところが1期やってみると、さらにもう1期やりたくなり、再度38年の横浜市長選挙に出た。
その時に、半井市長の選挙資金のために急遽埋め立てたので、あんなにひどい埠頭になったのだ」とのことだった。

このときは、半井清支持(自民党反主流派)と田中元助役支持(自民党主流派)に別れて自民党が分裂し、その結果社会党の飛鳥田一雄が当選し、4期にわたる飛鳥田市政が始まることになる。

つまり、半井さんの選挙資金を捻出するため、急遽埋め立てを行い、港湾等の関係会社に分譲し、その上前を刎ねて半井氏に提供したというのだ。
いかに昔とは言え、随分ひどい話だったものである。
ワールド・ポーターズのところに行くと、この話をよく思い出す。

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