一文字埠頭その他

一文字埠頭で、もう一つのことを紹介したい。
それは、以前ここでも書いたが、戦後の横浜でタクシー(睦交通)やガソリン・スタンド(睦興業)で財をなした谷田部巳男三郎(やたべみおさぶろう)氏のことである。
南区中村町の三叉路のところにあったガソリン・スタンドがそれである。

一文字埠頭の用地の所有者には、随分不思議な企業があり、港湾関係企業でないものもあった。
その代表が、谷田部氏が社長の(株)谷田部だった。
それは、不動産会社で、本来港湾区域内に土地を所有することはできない会社だった。
私は、「なぜ(株)谷田部が所有しているのか不思議だった」が、彼は、昭和38年の横浜市長選挙の時は、自民党の反主流派で、半井清支持だったのだ。
だから、彼の会社が横浜市から土地の分譲を受け、その利益を半井氏に選挙資金として寄付したのだろう。

このときの横浜市長選挙での自民党の分裂は、その後に大きな影響を残すことになる。
田中省吾元助役を支持したのは、当時の港北区(現都筑区)の島村力氏や鶴見区の横山健一氏らで、彼らがその後横浜の保守派の本流になる。
このとき、半井氏を支持した谷田部氏をはじめ、同じ南区の鈴木長之氏、中区の山本新三郎氏らは、ずっと反主流派として「冷や飯」を食うようになる。
自民党の最長老だった鈴木長之氏は、当選回数10期と全国最高だったらしいが、横浜市会の公職とは一切無縁で、後に長男の鈴木正之氏が議長になり、鈴木家の念願を果たすことになる。

こうして横浜市会は、飛鳥田市長との大変良好な関係もあり、鶴見区の横山健一氏の「独裁」体制になる。
これが、崩れたのは、昭和54年に西区の鈴木喜一氏が議長になったときからである。
鈴木喜一さんは、なぜか横山さんらと仲が悪く、長い間冷遇されていたが、大久保英太郎議長の後、やっと議長になれた。
この頃になると、自民党の中心は、中区の松村千賀雄氏となり、「松村時代」になる。
また、飛鳥田氏が、社会党委員長になり、市長も細郷道一氏に変わる。

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コメント

  1. marty より:

    懐かしいです。
    私が社会人となり
    就いた職が公的検量機関の企業でした。
    当時、一文字埠頭には宇徳運輸、関東郵船、
    大東運輸などなどがあり
    毎日会社の自転車で出向いたものです。
    あの狭い道に沢山のコンテナ積んだトレーラーが行き交い怖い思いも一度や二度では
    ありませんでした。
    まさに今のワールドポーターズの辺り
    写真探してます当時の。
    どなたかお持ちでないかなぁ。

  2. 狭い道路でしたね
    一文字埠頭は、ギリギリまで各社に売却したので、道路が非常に狭くてひどいところでしたね。
    あれも特別な事情だったので、できたことだったと思います。

    横浜市にも計量検査所というのがありましたが、民間でやっている企業もあったのですか。検量検査は本来は都道府県の業務だったと思うのですが。あるいは港湾の検量検査でしょうか。