『私は13歳だった 一少女の戦後史』

東京都知事知事選挙に、「軍国じいさん」石原慎太郎の対抗馬として出たとき、自ら「平和ボケおばさん」と名乗った樋口恵子さんの戦後を書いたものである。
図書館で面白いコーナーの一つが児童書で、特に伝記は興味深い本がひっそりと並んでいる。
これもその一つで、随分前に筑摩書房から出たもの。

昭和20年8月、日本が負けたとき樋口恵子(当時柴田恵子)は、13歳の小学生だった。そして、結核の闘病からやっと直ったばかりだった。
その後、新制中学、高校に入り、様々なことを経験する。
この世代は、戦後の学制改革をまともに受け学制は様々な変遷があり、そこも興味深いところである。高等小学校、旧制の中学等との混在があり、生徒も戦争の影響で現在のように皆同じ生年で進学してきたのではなく、ばらばらな年齢だった。
彼女は、御茶ノ水女子大付属高校に入学し、そして東大文学部に入る。
当初いた都立豊島高校とお茶の水の校付属の校風の違いも面白い。
また、どの学校でも生徒に自由にやらせていたことが分かる。
彼女は、秀才ではなく、元気でおしゃべり好きな普通の女生徒だったようだ。

そして、この本が優れているのは、女性しか書けないだろう、高校での「性教育」、実は木綿で作るT字帯(生理帯)の真面目な講義のおかしさ。
また、両親のセックスを彼女が仲間を代表して大人に聞き、校庭に残っていた奉安殿の裏で友人たちに語るシーンなどだ。
この奉安殿裏の「講義」は、彼女の最初の講演になる。
また、戦争、戦後のものがなく、食糧不足のとき、学歴・出身等で夫に大変なコンプレックスを持っていた母親が、生活の知恵を働かせ、猛烈に働いて一家を養ったというところもきわめて興味深い。
一般に戦後日本で、女性が強くなったと言われているが、実はそうではなく戦時中から工場等には労働力不足で女性が多数動員され、それが戦後にも続いていたのである。
また、アメリカ占領軍によって女性の権利、男女平等が与えられたように言われるが、それも嘘である。
明治以来の、神近市子、市川房江、福田英子らの先駆者の運動があったからこそ、戦後すぐに男女平等が実現したのである。

東大では、駒場の時代から新聞部に入り、卒業後はマスコミ各社を受けるが次々に落ちる。やっと時事通信社に入るが、すぐに結婚して退職し、一時は専業主婦になる。
そこで、夫が死ななければ、彼女は「東大出の主婦」になっただろう。
だが、娘が小学校に入る直前夫が急死してしまう。
そこから、再び彼女の社会との戦いが始まる。
この本は、彼女が社会的に認知されて有名になる前で終わっている。

そして、この本を読んで改めて驚いたことは、彼女にように優秀でまじめな女性でも、「美醜の問題」に常に悩まされていたことである。
彼女は、小さい頃から自分の容貌が美しくないことを自覚し、周囲の女性が美しいことを再三記述している。中学時代に演劇をやっていたことも関係しているのだが。
樋口さんには、30年くらい前に偶然、山の手線で見かけたことがある。写真そのままの樋口恵子だった。
友人と一緒だったが、すぐに樋口さんと分かり「樋口恵子だ」と言い合った。
大変失礼だが、彼女は所謂正統な「おか目顔」で、古来から日本的美人の一つであると私は思う。
まだまだ、平和ボケおばさんには、まだまだ活躍してもらいただきたい。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする