スラム・クリアランスの思想

横浜市南区、中区の京浜急行線下にあった「黄金町の特殊飲食店」が、神奈川県と横浜市の緊密なご協力により、撤去されて年月が経つ。
そして、跡地には、「文化」関係の店舗が入れられていて、文化の話題となっている。

こうした都市におけるスラム・クリアランスは、1960年代後半の東映のヤクザ映画では、新興の近代ヤクザの仕事になっていた。
そこに暮らし成業としていた善良な庶民は、ヤクザの暴力で泣く泣く立ち退かされる。
だが、最後は正義の味方だが、旧弊な反改革派の高倉健や鶴田浩二が現れ、天津敏、安部徹、遠藤辰郎らの卑怯な連中を斬ってしまい、エンドマークになった。
勿論、それでスラムクリアランスが終わったわけではなく、多分いずれスラムは撤去され、近代的な街になったのだろう。時代の推移から見れば、天津らの方が正しかったのだ。

確かに、以前の京急ガード下は、黒澤明の『天国と地獄』で描かれたほどではないが(あれはすべてセットなのだが、未だロケーション撮影で黄金町は、今でもあのようだと信じている方があるらしい)、店の前にはフィリピンやタイの女性が立ち、売春行為をしていた。
道徳的には良いことではない。
だが、私が男だから言うわけではないが、都市からあの実態を完全に払拭できるものだろうか、女性の方は嫌がるに違いないが。
昔アメリカに禁酒法があり、当然にも失敗したように、人間は本来「分かっちゃいるけど止められない」存在であり、様々な欲望を完全に消すことは出来ない。
その意味で、あのような「悪場所」は、都市には必然のものと思う。
要は、それをどう管理するかだろう。
一方的にクリアランスすれば良いというものではない。
事実、京浜急行ガード下にいた女性たちは、北関東に散在したらしく、日本からいなくなったわけではない。

松沢成文神奈川県知事や中田宏横浜市市長は、こうしたスラム・クリアランスに賛成で、熱心に実施されているようだが、それが「都市政策」「文化施策」で意義があるとは私には残念ながら到底思えない。
これは、私の偏見だろうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする