黒人文化の光と影

マイケル・ジャクソンが死んだ。
まったく興味を持てない音楽だが、彼がこの時期に死んだのは、象徴的である。
なぜなら、2009年アメリカで初めて黒人(アフリカ系アメリカ人)のオバマ大統領が生まれた年の死だからだ。

マイケル・ジャクソンは、言うまでもなく黒人音楽から出て、世界の大スターになった。
だが、1980年代以降、彼は、自分の皮膚を漂白させたことに象徴されるように、黒人性から離反を志向してきた。
総体として見れば、そのアクションは、「ムーン・ウォーク」に見られるように肉体性の喪失であり、まるで人形化、ロボット化である。
近年のマイケルは、皮膚病もあるとのことだが、まるで白人である。
そうした、自分の黒人としてのアイデンティティを否定するような姿勢で、表現が上手くできるはずがない。

もっとも、1990年代以降の、アメリカのポピュラー音楽は、ラップに象徴されれるように、肉体性の否定だった。あそこあるのは、単調な繰り返しに過ぎず、肉体の自由で躍動的な表現はない。
言わば、言葉に体が支配されている。そんなもののどこが面白いのか、私には不思議であった。
数年前、日本でZARDが死んだとき、やはり肉体の喪失を感じたが、ここにも肉体性を失うことの大きさがあったと思う。
50歳という若さでの死は、ある意味当然の報いと言うしかないだろう。
政治の世界では、黒人大統領が生まれ、音楽の世界では、かつてスーパースターだったものが死ぬ。
オバマ大統領の就任式では、アレサ・フランクリンが出てきて歌った。
アレサとマイケル。真に象徴的と言うべきだろう。

そして、今度のマイケルの死で、一番わりを食ったのは、ファラ・フォセットである。
彼女は、1970年代、「第二のモンロー」として大人気だった。
私も主演作品を見たことがある。
モデル出身の常で、表情は死んでいるが、そんなことはアメリカ映画に関係はない。
もしマイケルの死がなければ、トップニュースだったと思う。
なんとも不運としか言いようがない女優だった。
彼女のご冥福を祈りたい。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする