『女体』の時代的意味

恩地日出夫監督、団玲子主演の『女体』は、田村泰次郎原作の『肉体の門』と後日談『埴輪の女』を基にした作品で、シナリオも恩地が書いている極めて観念的な映画。隣のおじさんは、後半は、高いびきでずっと寝ていた。

敗戦直後の東京でボルネオ・マヤとしてパンパンをしていた団玲子が、銀座で昔の仲間楠侑子に会う。
団は、仕立て屋の稲垣昭二とつつましい生活を送っていて、楠は富豪の外人の女になり、クラブをやっている。
楠のところに、昔の男南原宏治の伊吹新太郎が来たという。
団は、新太郎に憧れていて、一度だけセックスし、絶頂を与えられたことを思い出す。
吝嗇な夫にはない性的快楽を思い出し、新太郎の呼び出しに大磯の旅館に出かけて行く。
麻薬患者の南原は、すべてを諦め自殺しようとするが、未遂に終わる。
その様を見た団は、また空しい日常生活に戻ることを決意する。

この映画が作られた1965年は、60年安保が終わり、経済成長の一方、泰平ムードで、倦怠とか、疎外等々が言われたときだった。
平凡な日常性より、生き生きとした敗戦直後の方がドラマチックだったという風潮だった。
だから、平凡な生活や幸福を呪詛するような作品の底流は、現在見ると大変おかしいのだが、それはこうした事情なのだ。

このすぐ後、団玲子はじめ、江波杏子、渥美マリ、須川栄三らは、シナリオ・ライターの白坂依志夫らと共に、「お薬仲間」のなってしまい、身を誤るようになる。
団は、意識朦朧状態でスタジオ入りしたりして、次第に避けられてしまう。勿論、恩地監督との破局もあったのだろ。
それらが遠因で、団玲子は、映画界を去り、薬が容易に入手できる医者と結婚したが、比較的若くして死んだのは、薬の後遺症らしい。
やはり、薬は体に良くないのだ。
若者は、薬物に気をつけましょうね。

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