ドキュメンタリー・カメラの攻撃性 『大日向村の46年』

昭和13年、長野県佐久郡大日向村は、集団で満州(中国東北部)に移住する。
村の半分がそっくり移住する「分村移転」で、国の模範的事業とされ、和田伝が小説に書き、前進座が劇化し、豊田四郎監督で映画にもなった。

昭和10年代の満州移民は、国の内務省が行った農村の経済更生計画に基づき、拓務省が推進したもので、様々な補助金が出た。
大日向村は、村長の大学時代の友人が国にいた関係で、早期に行われた。
だから、移住したのは、当時満州国の首都・新京(現長春)に近い農村で、大規模農業が行われた。
昭和15年以降の満蒙移民は、ほとんどが満州の奥地で、まるで対ソ連軍の防御陣地で、敗戦後は極めて悲惨になるのに比べれば、幸運だったようだ。
だが、勿論、そこは本来は現地の人間が住み、農業をやっていた土地を日本が強制的に安く買い上げ、追い出したものだった。
だが、大日向村の人間も、作者の和田伝も、当時それは全く知らなかったと言う。
100人もの中国人(満人と村の人間は呼ぶ)、朝鮮人(鮮人)らを使った農業で、作物も軍隊等に買い上げてもらうもので、かなり裕福だったようだ。
だが、1945年8月15日が、すべてを転覆してしまう。
中国人が押し寄せて、すべてを奪われてしまう。

一夜にして避難民となった村民は、長春の収容所に入れられ、数年後帰国する。
だが、長野県大日向村の土地は、すでに売却していたので戻れず、群馬県軽井沢に新たに入植・開拓する。
そして、昭和58年の二つの村の交流会から、このドキュメンタリーが始まる。

第一部は、その歴史、
第二部は村民のインタビューである。
勿論、彼らはその苦しかった生活を積極的には語らない。
しかし、残酷で、苦しかった体験がうかがえる。

一番興味深かったのは、ある帰国女性の話である。
彼女は、現地で日本人の男と結婚したが、夫は9ヵ月後召集されてしまう。
彼が、敗戦で除隊し、帰国しようとしたとき、彼女はすでに中国人と結婚していて、日本に戻らなかった。
その後、男性も日本で再婚する。
そして、彼女は昭和40年代に日本に帰国し、群馬県の病院で働く。
二人は何度か再会するが、互いに言葉はなかったと言う。
まるで、山本薩夫・亀井文夫の共同監督の映画『戦争と平和』のような実話だ。
彼女は言う。
「今の環境はとても良いわ。病院の人も何も聞かずやさしいし、あんたたち(撮影スタッフ)のようにうるさく聞かないから・・・」
実に、鋭い言葉だった。
ドキュメンタリー映画のカメラが、対象の人間を「攻撃する本質」を言い当てた台詞だった。
川崎市民ミュージアム

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする