『AK』

AKとは、アキラ・クロサワ、黒澤明である。

1985年公開の『乱』の富士の裾野での城の攻防戦を撮影中のメイキング・フィルムである。
以前、BSで放映されたが、その後上映もビデオ化もされていなかったが、今回日本映画専門チャンネルが黒澤明特集をやるに当たり、最初に放送された。
監督は、フランスのクリス・マルケルで、黒澤映画を熟知した上で、相当に批判的な視点で黒澤明を描いている。
黒澤は、「先生」と呼ばれている。
そこには、翻訳とナレーターである蓮実重彦の視点が入っているようだ。

一番面白いのは、仲代達矢の秀虎が、従者と夜の草原を行くシーンの撮影である。
黒澤は、蒔絵にヒントを得て、草に金粉を吹きつけ、照明を当てて美しいカットを作ることを思いつく。
スタッフ総出での草刈のシーンは、「まるで昔のソ連映画のようだ」とのナレーションが入る。彼らは、この作業を心から楽しんでやっているように見える。黒澤は、本当にこうした現場の作業が好きな人である。
そして、一日中を夜中までかけて入念に撮ったシーンは、編集ですべてカットされた。
実に皮肉だった。

興味深いのは、『乱』での死体が、黒澤が13歳のとき、東京で目撃した関東大震災の死体だと言うところ。
だが、私はそれは第二次世界大戦で、日本が南方の島々で、あるいは沖縄で体験した惨劇だと思っている。
言わば、黒澤の戦闘者、戦死者への贖罪である。

戦後の黒澤明は、自らが兵役に就かなかったことの贖罪、申し訳なさが作品の根底に常にあり、それが作品の倫理性を支えていた。
そして、それは戦後の日本国民の共通認識だったので、ほとんどの国民が黒澤映画に共感することができた。
だが、そうした「戦争意識」が日本の社会から一掃された1960年代中頃以降になると、黒澤は、主題を見失い、急速に弛緩してしまう。
作品としては、『天国と地獄』が最後の傑作で、次の『赤ひげ』では、倫理性のない、無意味なお説教になり、共感性を喪失してしまう。

では、晩年の作品は、どうか。
簡単に言えば、『トラ、トラ、トラ!』の失敗で、すべて協力するシナリオライターがいなくなったので、自分自身で書くようになったため、また元の贖罪意識が出てきている。
『乱』『影武者』が典型であり、『夢』も4話目に現れている。

『八月の狂詩曲』『まあだだよ』については、言うべき言葉がない。
「これが、黒澤なの」といべきだろうか。

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