評論家を信じなくなった始まり

1964年の「世界ジャズ・フェスティバル」は、実は私にとって、日本の多くの評論家、批評家を信じないことにした始まりだった。

言うまでもなく、この年10月は「東京オリンピック」で、それに合わせて海外から多数のアーチストが来た。
フランク・シナトラが最初に来日したのは、この年だし、その他ジャズメンも多数来日した。
そのメイン・イベントが、7月末に新宿厚生年金会館ホールと日比谷野外音楽堂で開催された「世界ジャズ・フェスティバル」だった。
それに併せて、雑誌「スイング・ジャーナル」などは事前に、大々的に特集記事を組み、レコードも再発売され、ラジオやテレビの特集番組もあり、座談会などでは「絶対に見に行かなくてはいけない!」と評論家が言っていた。
そして、高校2年生だったが、厚生年金会館の高い券を買って当日友人と見に行った。

メインは言うまでもなく、マイルス・ディビス・クインテットだったが、歌手のカーメン・マックレーのバック・バンドは、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズの前マイルスのバンドのメンバーのトリオという豪華さだった。
その他、J・J・ジョンソン・オールスターズや日本の松本英彦なども出たはずだ。

マイルスのメンバーは、トニー・ウィリアムスのドラミングがものすごく、ハービー・ハンコックのピアノ、ロン・カーターのベースと、非常に斬新なスタイルで、彼ら若手が好きなように演奏し、マイルスはときどき出てきて、少し吹くとすぐにいなくなる、という具合だった。このときの模様は、「マイルス・イン・トキョー」になっている。
勿論、初めて本当のジャズを生で聴いたので、我々は大感激だった。
帰り、池上線の五反田駅からは、花火のような火が見えたが、これは大井埠頭の宝組倉庫の爆発だった。因みに、この宝組が経営していたのが、上野のタカラ・ホテルである。

さて、9月になり、「スイング・ジャーナル」にこのフェスティバルのジャズ評論家連中の座談会があった。
読むと、さすがにマイルスについては、文句は付けていなかったが、かなりスタイルの変化には戸惑っているようだった。
だが、「他のバンドはひどかった。J・J・ジョンソン・オールスターズなんて、1950年代のオールド・スタイルにすぎず、松本の方が上だ」と酷評されていた。
「ええ、一体なんなの、絶対見ろ、と言ったのはなんだったの!」

そのとき、分かったのだ。
「これはみんな芝居、嘘、観客を増やすためのインチキなのだ」と。
日本の雑誌、ラジオ・テレビ等々は、今回のコンサート・イベントを基に、一緒に金儲けをしようとしている「グル・一味」にすぎず、「評論家、批評家など、みんな嘘吐きなのだ」と分かった。

このとき以来、日本の多くのジャンルの評論家、批評家は基本的に、生産者、作り手の味方であり、消費者たる観客の立場ではない、と思うことにした。
農業で言えば、農民の味方であり、われわれ消費者の味方ではないのだが、これは他の芸術、文化のジャンルでも同じなのである。

そのとき以来なんだよ、日本の多くのジャンルの批評家、評論家の言うことを私が簡単には信じないようにしたのは、岡田利規君、徳永京子君。
50年近くの年季が入っているのですね。

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