『悪人』から琴光喜まで

吉田修一の『悪人』はすごい小説である。
近年、小説を読む習慣をなくしているが、この小説は気になっていたが、読む機会がなかった。ところが、先日たまたま図書館の本棚に戻っていたので読む。
傑作である。
ここには、小泉構造改革以後、進行し完全に固定化しつつある階級格差、下層社会の拡大の中で、目標を喪失している若者たちが描かれている。
主人公、長崎の土木作業員・祐一は、知り合っていた保険会社のOL佳乃をたまたま殺害してしまう。彼らは、携帯の出会い系サイトで知り合った。
彼らには、セックスとギャンブルとささやかなグルメ、ショッピングしかない。
生きる目的、目標を喪失した者は、飲む、打つ、買う、しかなくなるのだ。

だが、こうした無目標状況は、決して今始まったことではない。
現在よりももっと完璧に階級が固定化されていた江戸時代末期の日本がまさにそうだった。
特に、西日本がそうで、民俗学者宮本常一によれば、戦後すぐくらいまで、西日本の社会では、女性の処女性に価値は認められておらず、結婚前に性交渉を経験している女性の方が珍重されたというのである。
そこで、こうした庶民の性的アナーキズムに困惑したのが、伊藤博文らの維新の元勲だった。彼らは、下層の武士だったので、庶民の実態をよく知っていた。
彼らは、庶民の非道徳性に対し、西欧にはキリスト教があるが、日本にはそうした道徳がない。そこで持ち出したのが、天皇制であったというわけである。一夫一婦制の家族制度は、こうして天皇家を日本の理想として明治以降に成立した。
また、こうした家族制は、下層武士だった伊藤らの、上層階級への憧れから来たという説もある。

今や、天皇制など若者には全く無縁で、右翼から「立ち上がれ日本」までが言う、「戦後民主主義が日本人の道徳を失わせた」というのは、ある意味正しいのである。
それは、アメリカ占領軍や吉田茂らが天皇を一個の人間として生かす代わりに、天皇制を捨てさせたのだから、日本から道徳性の根幹がなくなったのである。

今日の格差社会の中で、若者は階級上昇の夢もなく、セックスとギャンブルとショッピングに行きつくのは、当然の帰結なのだ。

さて、バカ大関琴光喜である。
以前から、こいつは大嫌いだった。
技がせこく、朝青龍には絶対に勝てないくせに、栃東や白鵬には勝ち、朝青龍の優勝を助けていた。
立会いは汚いし、土俵際でのうっちゃりなど、大関のするべきではない技ばかり出してくる。
やくざに賭博の勝金を取り立てに行って脅かされるなんて、まったくのバカ。
世の中、そんなに甘いもんじゃないよ。
やくざ相手にそんなことをするには相当の覚悟がいるというものである。
そして、ここにも見られるのは、横綱昇進という目標を失った大関の醜態である。
その意味では、琴光喜も、『悪人』に出てくる若者たちと同じ仲間なのだ。
今回の、野球賭博騒動では、モンゴルをはじめ外国人力士が出てこない。
彼らは、野球に興味がないからで、野球賭博汚染をなくすには、さらに外人化を促進させれば良いということになるのだろうか。
日本人で相撲界に入る者は、小さいときは野球をやっていることが多く、野球に興味を持つのは当然だからである。

『悪人』は、妻夫木聡、深津絵里主演の映画が公開されるそうだ。大いに期待したい。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする