『吾輩は猫である』

市川崑監督で作られた夏目漱石のあまりにも有名な小説、と言っても原作は物語性は薄く、今日的に言えばエッセイ的な小説である。
主人公のくしゃみ先生は、仲代達矢、妻は波野久里子で、悪妻ぶりがぴったり。
親友のめいていは、伊丹十三で、これも適役。
むしろ仲代は、あまりにも悠然としていて立派過ぎる気がする。
漱石は、もっと神経質な線の細い人だったと思う。
そうでないと、盗品を受け取りに警察に行き、その夜を家に戻らず、姪の島田陽子の家に泊まってしまう気弱さの理由の説明がつかない。
この後、泥棒と刑事が家に挨拶に来るが、辻萬長と海野かつおで、辻の方が立派なヤクザ、海野が怪し気な男で、漱石が取り違えてしまうのがおかしい。海野かつおなど、失礼だが、大して有名でない喜劇人をよく使ったと思う。彼の代表作に違いない。

寒月の岡本信人、金貸しの三波伸介の金田、その高慢な妻岡田茉莉子、美人の娘篠ひろ子、さらに仲代の仲間の前田武彦、中学の校長の岡田英次など、多彩で適役はさすが市川崑である。
彼によれば、脚本と配役で映画の70%は決まってしまうのだそうだから。

この作品は、東宝配給だが、製作は芸苑社。
1970年代、東宝は、東宝映画の他、東宝映像、芸苑社、青灯社、東京映画等の製作プロを配置し、製作と配給の分離を図った。
東京映画で、文芸映画を多数作ってきた佐藤一郎の芸苑社は、『華麗なる一族』等で大成功したが、佐藤の死で終焉になる。
さらに、青灯社に至っては、「社長の堀場伸生が、『レイテ戦記』の企画で資本金を使ってしまうような大失態で、潰れた」と葛井欣四郎の『遺書』にあった。
分社化は、責任分担の明確化とリストラには意味があるが、全体の管理や統制も余程きちんとやらないと、これまた無責任体制になってしまうようだ。
1980年代以降、内部製作機構ではなく、外部プロダクションからいくらでも作品が来るようになったので、東宝は、東宝映画と特撮の東宝映像にしてしまう。なんとも懐かしい気がした。
日本映画専門チャンネル

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