山本嘉次郎

小林桂樹特集、『ホープさん サラリーマン虎の巻』を見る。
1951年、東宝作品で小林桂樹主演のサラリーマンもので、監督は山本嘉次郎である。
これが、その後1980年代まで延々と続く東宝のサラリーマンものの最初になる。
だが、私も改めて驚いたが、このとき小林はまだ大映の専属で、他の出演者も伊沢一郎、石黒達也、関千恵子と大映系が多い。東宝専属は、社長の志村喬と小林の母親の三好栄子、恋人になる高千穂ひづる(当時はまだ宝塚歌劇)くらい。

話は、新入社員として昭和鉱業(石炭会社か)に入った小林が、大学時代の野球選手の経歴を生かして出世していくというもので、他愛ない挿話ばかり。
だが、ここには後年のサラリーマンものの要素がほとんど出ている。社長志村の芸者花柳小菊との浮気、嫉妬する妻沢村貞子との葛藤、美人の同僚の高千穂と小林との恋、公職追放で座を追われた先代の小川虎之助の追放解除による社長復帰、高齢になり耳が聞こえなくなった高千穂の父親東野英冶郎の馘首と後任課長になる小林など。

サラリーマンものをはじめ、東宝のシリーズものにおいて山本がした功績は多大である。
『藤十郎の恋』に始まる文芸映画、エノケンの喜劇からクレジーキャッツ、ドリフターズにに至る『喜劇・音楽映画』、高峰秀子主演の『馬』に始まるセミ・ドキュメンタりー作品、戦後の『マナスルに立つ』は、森谷司郎の大ヒット映画『八甲田山』や、一昨年の『剣岳 点の記』までの記録的作品群に繋がっている。
また、同時にその時々の時勢に極めて敏感で、戦前、戦中は『雷撃隊出動』『加藤隼戦闘隊』、そして『ハワイ・マレー沖海戦』の戦意高揚映画を撮った。

だが、戦後は一転して、それを反省し共産党を中心とした組合運動に強い理解を示し、1946年10月に後楽園球場で日映演(日本映画演劇労働組合)主催で行われたページェント『芸術復興祭』では、土方与志の演出の下、司会も務めた。
東宝ストでは、黒澤明らと共にどちらかと言えば、組合に近い立場にいて、争議後は映画芸術協会を作り東宝以外の各社で映画を撮る。
そして、東宝が製作再開後は、喜劇を中心とし、どちらかと言えばあまり映画の表舞台には出ず、新人俳優の育成、ラジオ、そしてテレビでの「物知り叔父さん」として活躍するようになる。
山本嘉次郎が、なんでも知っていることは有名で、テレビ等の活躍で、多分、1960年代当時、日本で一番有名な映画監督だっただろう。

だが、あるとき群馬で撮影があり、小林桂樹も参加した。
そのとき、山本は例によって「群馬というのはだな  」と自説を開陳したそうだ。
だが、群馬に生まれ育った小林から見ると、山本の自説はほとんど嘘だったので、小林は笑いを堪えるのに苦労したそうだ。
だが、嘘を本当のように話す資質は、まさに天性の物語作者のものである。
その意味で私は、山本は語り口の上手い監督の一人で、マキノ雅弘などに近い人だと思っている。
日本映画専門チャンネル

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