『プライド』

一条ゆかりの大ヒット漫画の舞台化で、脚本は大石静、演出は寺崎秀臣。
主演は、笹本玲奈と新妻聖子で、男は鈴木一真と佐々木喜英。
この4人しか出ない。
話は、オペラ歌手を目指す二人の若い女性に、レコード会社副社長(鈴木)とピアニスト(佐々木)が絡むもので、昔テレビで流行した「トレンディー・ドラマ」のように閉じられた人間関係のみで進行する劇である。
オペラ・コンクールから始まるので、前半は笹本と新妻の歌合戦になる。
そして、ドラマはこの4人しか出ないので、当然だが閉じられた環の中でのみで終始する。
その息苦しさが、私には耐えるのは苦痛だったが、大多数の観客の女性は快いのだろうか。

一般に大衆劇の構造として、主人公4人しか出てこないというのは本質的におかしい。
その誤謬は、かつて長嶋巨人が4番打者ばかりを集めて優勝できなかったのと同じである。
歌舞伎から長谷川一夫に至るまで、日本の大衆劇では、主人公はほとんど出てこなくて、最後の一番良い場面に出てきて場をさらっていく。
『忠臣蔵』の「遅かりし由良之助」は、最後にやっと出てくるから芝居になるのである。
それは、野球の打順には1番から9番まで、その打順に応じた能力と個性の打者を並べるのが良いチームであるのと同一である。
そのことは、この劇の製作者たちは全く理解できていないようだ。
やはり、主人公4人以外に、様々な脇役がいて、初めてドラマは生まれるのである。4人だけでは、劇は煮詰まるだけで私には苦痛だった。

そして最後は、極めて日本的な、ダサイ結末で終る。
昔見た新東宝映画のような筋書きである。
大石静の脚本の師匠は、新東宝の企画・脚本で活躍した宮川一郎なので、その影響なのだろうか。それとももともと一条ゆかりがダサイのだろうか。
日本の映画界には「古い酒を新しい皮袋に」という台詞、すなはち「古臭いテーマを新しいもののように見せると当る」という法則があったそうだが、これもそうなのだろうか。
新妻聖子の歌が唯一の救いだった。
シアター・クリエ

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