『樋口一葉』


1939年東宝で作られた樋口一葉を主人公とする映画。
脚本は八住利雄、監督は並木鏡太郎、主演は山田五十鈴で、その妹は堤真佐子、一葉が恋焦がれる半井桃水は高田稔、最初に一葉が歌の修業に入門する歌塾長の中島園子は、英百合子、その他深見泰三や嵯峨善兵衛、北沢彪など、東宝の俳優が総出演。
高峰秀子も『たけくらべ』のモデルになる吉原近くの花魁の妹の翠として出てくる。

話は、桃水との噂を立てられ、中島の歌塾を追われた一葉が浅草竜泉寺町に荒物屋の店を開き、次第に文壇で認められていくことを、実際に吉原近くで見聞した挿話と合わせて描く。
監督の並木は、戦後は新東宝で時代劇を作っていて、それほど目立つ監督ではなかったが、戦前はマキノや嵐寛寿郎プロ等で活躍し、かの山中貞雄と並び称されたほどの人だったようだ。だが、戦争中に演劇界に行き、映画界を離れたことから戦後もすぐには戻れず、その後もあまり名声を回復しないままに終わったようだ。
だが、ここでは確かな表現力と抒情性を帯びたしっかりとした作品を作っている。
特に音楽は、永井荷風との交流でも有名な菅原明朗で、浅草付近の最下層の芸人の俗曲等もきちんと再現している。
その他、吉原の木造3階建ての楼閣、道の泥濘、入り組んだ町並み、職人らの衣装など、時代考証がしっかりしている。
もっとも、戦前のこの時期くらいまでは、明治、大正の風俗、町並みも十分に残っていたのだから当然とも言えるが。
この映画の美術は、久保一雄で、彼はPCL,東宝で映画美術に活躍し、戦後は東宝ストでも重要な役割を演じ、その後は左翼独立プロ作品で大活躍する。
美空ひばり主演の『たけくらべ』の美術も久保で、同様に木造3階建ての吉原の楼閣が見えるものだった。

作品の中で、『文学界』同人の馬場胡蝶や戸川秋骨らは、一葉の店に来て、「あなたはこんな商売をしていては駄目だ、文学に専念しなさい」と盛んに言う。
だが、事態はまったく逆だったのだ。
樋口一葉が、数々の名作を生んだのは、浅草竜泉町で、そこの職人、酌婦、無職者等に小商いをしたからこそ、当時の日本の都会の細民の暮らし、心情、心意気といったものに直に触れられ、それが彼女の文学を生き生きとし、明治の社会を恰も俯瞰するかのごとき名作となったのである。
彼女は、初めは宮中にも出入りする中島歌子の歌塾で、最上層の世界を知り、その後浅草で最下層の人間を見る。
それが、彼女の他の文学者とは大きく一線を隔する優越性となった。
二言目には、尾崎紅葉らを罵倒し、外国作品を朗誦する若い世間知らずの『文学界』の連中などとは比較にならないリアリティを獲得することになったのである。

最後、久しぶりに桃水の家に行った一葉は、嫁の存在を知り、自分の恋が終わったのを知る。
翠は、吉原の店に出て、竜泉寺の餓鬼どもとも別れる。
そして、この頃から彼女は急速に結核に侵され、浅草の店をやめ、文学に本当に打ち込むことを決意して終わる。
山田五十鈴の顔が、病に冒され次第に細くなるのがさすがである。
この映画の関係者では、高峰と山田五十鈴の二人が現存者だったが、今は山田だけだろう。
川崎市民ミュージアム

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