『天守物語』

泉鏡花の戯曲の映画化で、監督・主演は坂東玉三郎。
姫路城の天守に、南美江らの腰元らがいる。
台詞で、「猪苗代の姫がどうした」等があり、これは尋常の連中ではないなと気づく。
そこにスモークと共に富姫の玉三郎が、現れる。
彼らは、人間ではなく、この世の話ではないのだ。

凡俗の公務員の私は、この「鏡花世界」と言うのが苦手である。
人間と精霊、また動物等が同一世界に出てきて、到底私の想像力の不足している頭では理解不能に陥る。
糸車で、草花を釣るなどの、浮世ばなれしたお遊びの後、猪苗代の城から亀姫の宮沢りえが来る。
ここもスモークから、りえ姫様が姿をおわらしになる。

そして、姫路城主の鷹番の侍宍戸開に富姫は惚れてしまう。
これなども、心理や理由はなく、互いに美しいからなのだ。
この辺の無理やりさもすごいが、こうした理屈なしが、伝統芸能なのである。
城主から切腹を命じられていた宍戸の命を玉三郎は救ってやるが、その代わりに天守に攻めてきた侍たちとの立ち回りの中で、二人は盲目となってしまう。
そこに仏師の島田正吾が来て、天守閣に置かれている獅子の木像を直すと二人の目が開く。

なんとも、尋常な精神では理解できない話だが、それを納得させるのは、坂東玉三郎、宮沢りえ、そして宍戸開らの美しさなである。
宍戸開が、こんなに良い男とは知らなかったが、よく考えると父の宍戸錠も当初は、二枚目だったのだから、当然か。

泉鏡花原作の映画としては、よくできていると思うが、根本的には多少の疑問もある。
それは、撮影、照明、美術がリアルに世界を作っていることである。
いくら鏡花世界と言っても、所詮は怪談であり、化物映画である。

この種の作品の典型で、その両極端に、小林正樹監督の1964年の『怪談』と、中川信夫監督の1960年の『東海道四谷怪談』がある。
『怪談』は、日本映画史上最大のセットで、この予算過剰のために、にんじんクラブは倒産したと言われている。
一方、『東海道四谷怪談』は、新東宝末期の作品で、低予算で作られた。
その結果、美術予算がないので、全体が極めて幻想的になっている。そして、『怪談』は、名カメラマン宮島義勇の下、リアリズムで撮影されている。
両作品の結果は、明らかで低予算の新東宝、中川信夫監督の『東海道四谷怪談』の方が、遥かに面白い映画となっている。

この映画『天守物語』は、重要なシーンでは幻想的に撮っているが、全体は普通にやっており、どこかちぐはぐな気がする。
音楽は、日本の伝統音楽だが、一部はドビッシーも使っていて、これはぴったりだった。
映画監督として、坂東玉三郎は、なかなか大したものだと思う。
これ以降、彼の監督作品がないのは、あまり当らなかったからだろうか。

玉三郎の主演映画には、篠田正浩監督の『夜叉が池』があり、これの坂東玉三郎は異常に美しかったと思う。
だが、なぜかビデオ化も、名画座等での上映もない。是非、もう一度見てみたいが。
衛星劇場

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする