活弁の影響の大きさ

先日の岡田則夫さんのイベント『わがSP蒐集人生』で強く感じたのは、活弁、つまり映画説明の活動弁士の語り口の影響の大きさだった。
映画ができた初期、日本では映画の上映に当たり、説明者が付き、それを活動弁士、活弁と言い、大変人気のある商売だった。
中には女性もいて、昨年亡くなった女優高峰秀子は、彼女の叔母が女性の活弁であり、その時の芸名が高峰秀子だったのは、有名だろう。
1930年代になり、映画がサイレントからトーキーになると、活弁は失業し、中ではストライキも起きた。
その中で自殺したのが、黒澤明の兄黒澤勇で、神田シネマ・パレスの主任弁士だった須田貞明である。

トーキー以後、活弁の多くは、漫談家になった。
徳川無声、山野一郎、牧野周一、大辻司郎など。
あるいは松井翠声や西村小楽天のように司会者になる者もいた。
松井は、なぜかボクシングやプロレスの世界戦になると必ず現れてリング・アナンサーを務めた。

活弁のしゃべり方は、この日岡田さんのレコードで披露された『白浜温泉のバスガイド』、大阪の『鈴貫のチンドン』のレコードでも、その語り口に、受け継がれたと思う。
岡田さんによれば、「バスガイドのレコード」は、多数あり、大変売れたものだそうだ。要は、当時は旅行はなかなかいけなかったので、その代わりに聞いたのだそうだ。今のテレビの「旅番組」のようなものだろう。
さらに、紙芝居なども、活弁の影響が大きかったと思う。
そして、現在では、図書館業界等で行われている「読み聞かせ」の語り口は、やっている人たちは、全く意識していないだろうが、明らかに活弁の系譜にあると私は思う。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする