『雪やこんこん』

こまつ座公演の『雪やこんこん』の時代設定は、昭和29年になっているが、実はこの昭和29年は、大変意義深い年なのである。
戦時中に製作機構を大映に無理やりに合併された日活が、映画製作を再開し、テレビ放送が始まった。
つまり、戦前・戦中から続いて来た映像の統制体制に対し、戦後の新たな映像文化が始まったときなのである。

井上ひさしの『雪やこんこん』は、初演は1987年で、今回が4度目の上演だそうだが、大変面白いよくできた芝居である。
ただ、やはり初期の井上ひさしの劇の常で、劇の中で劇が演じられるが、ここには「治療劇」の設定はない。
登場人物が、インテリではなく、庶民なので、精神疾患は存在しないからである。

ここで問題となっているのは、当時戦後の映画やストリップの大流行で、壊滅的に衰退しつつあった大衆演劇の中村梅子(高畑淳子)一座が、北関東の雪深い田舎の温泉の芝居小屋で、「正月までの公演ができるか、どうか」である。
一座からは、その日も高崎で役者が逃げたばかりで、残った役者の腰も皆浮いている。
何しろ、11月から給与を払っていないのだから当然である。
そこで、座長の中村梅子(高畑淳子)は、小屋主の佐藤和子(キムラ緑子)と、一計を案じ、別れた母娘の再会話をでっち上げて、座員の涙を誘う。
また逆に、元役者の緑子の心性を利用し、彼女自身を劇に登場させる仕掛けを役者たち(金内喜久夫、今拓哉、村田雄浩、山田まりや)も演じる。
その芝居と芝居の応酬が、この劇の核心であり、どこまでが芝居で、どこからが本心なのか、日常生活の全てが芝居になってしまう芝居者らしさにリアリティを与えている。
まさに「虚実皮膜の間」である。
普通の台詞もすべて七五調になり、黙阿弥ばりの「つらね」になってしまう言い口のおかしさ。
これは芝居だけのものだろう。

高畑は、大衆演劇一座座長を適役で演じ、キムラ緑子は、初演以来ずつと演じている役だそうだが、いつもの金内や村田もさすがに上手い。
芝居小屋と旅館の番頭を演じる新井康弘は、こまつ座は初めてだそうだが、大変に良かった。
彼が、元アイドル・グループのズートルビの一員だったと言っても、今では知っている方が少ないだろう。

雪やこんこんなどと言う芝居を見たせいか、今日の東京、横浜は雪になり通勤が大変だった。
だが、その雪も、「春の雪」で、すぐに消えたのは幸いだった。
紀伊国屋サザン・シアター

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする