二村定一は、戦後なぜ凋落したのか

先々週の土曜日の10日、毛利眞人さんが二村定一の評伝『砂漠に日が落ちて』を出され、それを記念したレコード・イベントが「ぐらもくらぶ」で行われた。

そこでは、第一部として佐久間毅(鉄仮面)の『夢の人魚』から、『行進曲ニュウヨーク』(内海一郎)、『南へ、南へ』(天野喜久代)、『アラビアの唄』黒田進(楠木繁夫)、『ニューヨークの囁き』(佐藤緋奈子)、さらには井上喜久子の『嘆きの天使』まで、昭和初期のジャズ歌手のSPが掛けられた。
第二部では、二村定一の『アラビアの唄』以下の名曲が掛けられた。
この1部、2部を通し、当時のマイナーなレコード会社にも多数いたジャズ歌手を聞いて、あらためて感じたのは、やはり戦前のジャズ歌手の中では、二村定一と天野喜久代が圧倒的に上手いことがよく分かった。

毛利眞人さんの本はまだ読んでいないが、今回の毛利さんの本に関連し、ぐらもくらぶから出された二村定一のマイナーな作品を集めたCD『二村定一 街のSOS』を早速購入し聞いてみた。
このCDの中では、ルンバ・アレンジの『浅草おけさ』が一番面白かったが、全体に二村定一の歌唱法の特徴がよく出ているように思えた。
昔、阿佐田哲也さんは、二村を最初に聞いた時、「じだらく」という言葉を感じたそうだ。
そして、「この人の将来はどうなるのか」と子供ながらも心配したそうである。
確かに二村定一の歌い方の特徴は、その投げやりな自暴自棄さにある。
まさに阿佐田哲也さんが、幼心に感じた「自堕落」そのものである。

当時は戦前、戦中の次第に戦争体制に向い、エロ、グロ、ナンセンスの享楽的な芸能へ圧迫も次第に進行しつつあった。
二村定一の曲は、そうした享楽的なものの象徴であり、だからそれを聞くことは、時代の傾向への一種消極的な抵抗の意味を持っていたと思われる。抵抗というのが大げさなら、韜晦というべきだろうか。
ところが、昭和20年8月に戦争が終わり、時代と社会が一変する。
だが、これ以降、飲酒等から来る声の衰えもあったが、二村は、次第に時代から取り残されていく。
なぜだろうか、本来自由な時代になったのに、二村定一は、かつてのような輝きを失ってしまったのか。

戦後の社会的風潮をどのようにとらえるかはいろいろな見方があるだろうが、今から見れば問題はあったとしても、その主調は、新しい日本を作ろうとの健康な、建設的なものだったと思う。
そこでは、二村定一のような後ろ向きの歌は、歓迎されず、それが彼の凋落の原因だったのではないかと思う。
彼の最大のライバルである榎本健一は、二村定一とは対象的に、本質的に健康であり、子供にも親しまれる底抜けの明るさがあった。
だから、エノケンは、結構長く戦後の芸能界に生き残ったのだと思う。

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コメント

  1. SS より:

    Unknown
    ×砂漠に陽が落ちて
    ○沙漠に日が落ちて

    満州で二村を見たという人から聞きましたが、喉を傷めて歌えなくなっており、ナイトクラブで用心棒をして暮らしていたそうです。

  2. さすらい日乗 より:

    ありがとうございます
    訂正しました。
    その返のことは、毛利眞人さんの本で確かめましょう。

    戦前の、川畑文子などの二世歌手が戦後はお呼びでなくなったのは、戦後は本物のアメリカ人歌手が直接来るようになったからで、二村にしても、戦前、戦中のやり方では無理だったと思います。
    古川ロッパと言い、戦前は西欧的と言われた連中が、戦後は逆に振るわなくなったのは、身体的理由を除いても大変興味あることだと思っています。