役者を信じられない演出家 長塚圭史

渋谷のシアター・コクーンでテネシー・ウィリアムズ作の『ガラスの動物園』を見た。
今更言うまでもない、現代劇の名作で、今回は主人公のローラは深津絵里、弟で語り手でもあるトムは瑛太、母親のアマンダは立石涼子、トムの会社の同僚で、かつてはハイ・スクールの英雄で、ローラの憧れの男だったのは、鈴木浩介である。

深津絵里のローラは、これ以上ないだろうと思われる適役で、現在で見れば彼女は典型的なパニック障害である。
実際、ウィリアムズの姉は精神分裂病になって病院に入院し、最後はロボトミー手術をされて人格を喪失してしまう。このことは、ウィリアムズの心に長く残り、これが彼の贖罪意識の根底になったのである。
母親の立石は、少々日本的おばさん過ぎるが、悪くない。
瑛太のトムも以前、『怪談牡丹灯篭』での萩原新三郎から見れば、随分と上手くなり、一応見られる水準になっていた。
ジムの鈴木浩介は、もっと声に魅力が欲しいところだが、普通のできである。
だが、総てを壊しているのが、ダンサーの存在で、重要なシーンで劇を批評したり、見つめたりしている。

数年前の長塚圭史が演出した『タンゴ』では、彼自身が舞台に登場してきてウロウロするので不愉快だったが、これも全く同じだった。
これは、何を意味するのだろうか。
私が見るところ、長塚は役者を信じられない演出家だと思う。
だから、自ら、あるいは異なる方法で舞台に意見を加えるのである。
こんなことが許されるのだろうか。
長い目で見れば許されないと思う。

映画界で見れば、日活に中平康という監督がいて、大映の増村保造と並び称された。
だが、中平と増村には根本的な相違があった。増村は、若尾文子、渥美マリ、緑魔子らに徹底的な演技を要求し、そこに自分の思いを込めた。
だが、今日中平の『密会』などの文芸作品を見ると、彼はどこにも思い入れていないことが分かる。
監督が役者を、そしてその世界を信じていなくて、一体見るものは何を信じたら良いのだろうか。
長塚圭史君が、中平康の歩んだようにならないことを期待したい。
シアター・コクーン

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