『ドレッサー』

パルコ劇場で平幹二朗、西村雅彦主演の『ドレッサー』を見る。最低だった。
英国の作家ロナルド・ハーウッドの作で、第二次大戦下ロンドン郊外で『リア王』を演ずる一座の座長(平)と、その付き人ノーマン(西村)を描いた傑作戯曲である。映画にもなり、アカデミー賞の候補にもなった。
私は、1988年に三国連太郎と加藤健一でやったのを見て、大変感心したので(演出ロナルド・エアー)、期待して行ったが、これ程つまらなくできる演出の鈴木勝秀の「才能」に感心した。

平は、年老いて『リア王』のようにほとんど認知症(まだらボケ)だが、その夜もノーマンの献身的努力で回復し、奇跡的な舞台が演じられる。だが、劇が終わると、座長はあっけなく死んでしまう。
残されたノーマンは言う、「これからどうしたら良いんだ、俺には何もすることがない」

ノーマンと座長との関係はほとんど恋愛関係愛で、妻(松田美由紀)との不和は勿論、女優志願の娘(勝野雅奈恵)が誘惑しようとすると、彼は嫉妬して遠ざける。

台詞劇なのに台詞が全くかみ合っていない。
平は熱演だが、他がひどいので一人空回りしてしまう。まるで、この劇団の座長そのものである。
西村は、よくやっているが、芝居の薄っぺらさが露呈してしまう。
平の妻で一座の主演女優の松田は、初舞台の素人で論外。高校演劇でもこんなにひどい役者はいないだろう。台詞をきちんと言わず、舞台上を踊っているだけ。今回の出演は自分の授業料として、ギャラを返上すべきだ。
唯一真面目にやっていたのが、舞台監督でオールド・ミスの久世星佳だが、これも演出のひどさで、平とのやり取りなどとてもいいのだが盛り上がらない。

鈴木秀勝という才能のない奴にやらせるなら、デビット・ルボーとは言わないが、海外から若い演出家を招聘した方が金の有効な使い方と言うべきである。

規制緩和と海外交流がどこでも課題だが、演出家でも是非「外資」ならぬ「外才(外国の才能)」をどんどん導入してもらいたい。

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