『日活昭和青春記』 松本平

日活の1954年の製作再開後から、全盛時代、末期からダイニチ時代、さらにロマンポルノ時代に調布撮影所にいた著者の本である。

松本平は、知人の紹介で撮影所の美術部に入り、その後1962年に根本悌二をリーダーに組合ができると加入し、その後は役員として活躍する。

そして、1960年代の日本映画界の業績の悪化から社長堀久作の末期的経営方針で、日活は撮影所を1969年に電通共済会に売却することになる。

さらに、鈴木清順の解雇問題や著者自身の解雇事件等が起き、次第に組合は強固になる。

経営意欲を次第に失った堀久作・雅彦親子から経営の実権を組合幹部が握るようになり、ついには組合委員長だった根本悌二が役員から社長にまでなる。

さらに根本の後を継いで社長になった若松正雄も、実は美術部出身で、著者の友人でもあった。

美術部は、撮影所の中では、最も肉体労働的者な部門であり、戦後直ぐに行われた東宝ストでも、一番強硬な部門の一つで、そこのリーダーだった宮森繁は、後に日本共産党の中央委員になったほどである。

宮森は、著書の中で、「撮影所では脚本・監督等のホワイトカラーと美術や照明等のブルーワーカーとの対立が歴史的にあったが、それを越えて戦ったのが東宝ストだった」と言っているが。

著者も、組合の役員から取締役になり、主として衛星事業など、新規事業の担当になる。

日活の作品やスター、スタッフの裏話を期待すると裏切られるが、ロマンポルノ時代の経営の裏側の実際は大変興味深い。

ROC(流通卸センター)などを使っての増減資を操作しての大量の債務を解消した話など、当時新聞では聞いていたが、本当のことだった。

しかし、営業の実態はいつも大変で、そのため不動産やゴルフ場、スポーツジムの運営等を手がけた。

だが、結局はバブル崩壊とAVの普及で、倒産せざるを得なくなり、ナムコに買収された後、現在は日本テレビが筆頭株主になって存続しているのである。

今年は、日活100年で様々な事業も行われている。

本当は、よく知られているように昭和18年に大映に制作部門は無理やり統合させられ、昭和29年までは、映画製作はしていなかったので、映画製作で見れば90年なのだが。

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