『藤圭子・わが歌のある限り』

1960年代の末にテレビに藤圭子が出てきたとき、一種異様なものが出てきた感じがした。

それは、1960年代の経済の高度成長時代の日本に、こうした貧困と古臭さを売り物の芸能人が出てきたことにである。

実際の藤圭子一家の状況が本当はどうであったかは知らないが、裕福ではなかったのは事実だろう、何しろ浪曲師の父と曲師の母親だったのだから。

だが、明治から1950年代まで、日本で最高人気の大衆芸能は浪曲であり、日本のレコード会社の基礎を作ったのは実は浪曲のレコードなのである。

どれだけ売れたかで言えば、所謂「複写盤事件」が起き、この裁判での原告敗訴がきっかけとなり、日本でも著作権制度が整備されたのである。

複写盤事件とは、浪曲の桃中軒雲右衛門のレコードが大いに売れ、それをコピーするSPまでが出た。

その時、雲右衛門に多額のギャラを払って本物盤を出していたドイツ人のワダマンは明治45年に、複製盤を作っている連中を相手に裁判を起こした。

だが、大審院は大正3年に、被告側を無罪とした。

理由は、浪曲の実演のような即興的音楽は著作物ではないとのことで、「複写盤は正義に反するが、法律の定めがないので無罪」というものだった。

経緯はいろいろあるが、著作権法が改正されて大正9年には、実演も保護されるようになったのである。

父は長門勇、母は扇千景、その他旭川の興行師で、最初に圭子の才能を見出すのが伴淳三郎で、彼の言葉で一家は浪曲師をやめ圭子の歌にかける

福島の常磐ハワイアンセンターで歌っている藤圭子の才能に惚れるのが、天知茂で、作曲家石中となっているが、先日死んだ石坂まさとのことだろう。

いつものとおり天知の演技はひどくまじめなもので、時として笑ってしまう。

ここでも町で流しをして、やくざ風の男にも脅されるが、坂上二郎は言う。

「縄張りなんて何を言っているんだ、あんたが歌い、圭子ちゃんが歌う、どちっちが良いかは皆に決めてもらう、それで良いじゃないか」

監督の長谷和夫は、1966年に竹脇無我主演の『続・星雲ヤクザ』を見て、ひどかったので、これも期待していなかったが、意外にも良い。

多分、脚本の宮川一郎のお手柄だろう。

最後というか、冒頭がリサイタルの開幕の時に、藤圭子が来なくてどうなのかという時、ギリギリに来てリサイタルが始まるが、その幕が降りてエンド。

阿佐ヶ谷ラピュタ

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