女は男のふるさとよ 『オース!バタヤン』

今年亡くなられた田端義雄のドキュメンタリー映画で、非常に面白い。

映画の最後にバタヤンは、きく、

「どこから生まれて来たの?」

女は、すべての人間のふるさとであり、私はこよなく愛すという彼の宣言だが、上映館は懐かしいテアトル新宿で、学生時代ここでよく名画を見た。

あるとき、休憩中に客席で大声で話している女がいて、「誰だ?」と振り向くと、当時人気絶頂の中野良子だった。

倍賞美津子、森崎東の「女シリーズ」の舞台も新宿芸能社だったっけ。

さて、田端義雄は、戦前の流行歌手の中で極めて珍しいことに、正規の音楽教育を受けたことのない人だった。

意外に思われるかもしれないが、藤山一郎、淡谷のり子、霧島昇、東海林太郎、渡辺はま子ら戦前の流行歌手は、クラシックの音楽教育を受けている。

ジャズの歌手では、二村定一やディツク・ミネのように音楽教育とは無縁な連中もいたが。

それに対して、田端義雄は、全く音楽教育を受けておらず、独自のやり方で、ギターを抱えて歌うスタイルを作り出してきた。

そうした庶民性が彼の偉大さ、人気の源泉である。

戦後は、美空ひばりや北島三郎を典型に音楽教育とは無縁の天才的歌手が出てきて、スターになるが、これも一種の民主化の結果である。

その「あんちゃん性」は、戦後の小林旭、もっと大きく言えばプレスリーも持っていたもののように思う。

バタヤンが、第二の故郷と言う、大阪鶴橋の小学校で行われた公演を中心に、戦前、戦中、戦後の記録もふんだんに挿入され、昭和庶民文化史である。

瀬川昌久さんや北中正和さんたちも出ておられ、適格なコメントをされている。

そして、重要なことは、彼が貧困から来たトラホームで片目が失明していたため徴兵されなかったことだろう。

丙種あるいは、丁種合格だったのだろう。

そうした自分が戦争に行かず、同胞は戦場で死んだとの想いが、彼の哀愁を含んだ唱法には込められていると私には思える。

戦前中国の戦場の墓碑銘の写真に、伴田五郎の名が見えた。

これは女優の田村秋子と結婚し文学座の創設者の一人だったが、1937年召集され、上海で戦死した友田恭介のことに違いない。

テアトル新宿

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