『冤罪放浪記』 杉山貴男(河出書房新社)

ネットのあるサイトで知った本、著者といっても、杉山氏ご自身の記述ではなく、構成塩田祐子の著述と思われるが、内容は大変興味深いので、紹介する。

      

杉山氏は、1967年8月に茨城県利根町布川で起きた殺人事件の「布川事件(ふかわじけん)」で逮捕され、最初から無罪を主張していたが1978年に最高裁で一旦無期懲役が決まる。

その後、再審請求し2005年に再審開始され、その後2011年に無罪となった方である。

冤罪事件の被告で、再審で無罪となった方の一人だが、その冤罪の作られ方や再審請求への経緯は、他の冤罪事件と同様で特に興味を引くところはない。

だが、この本で一番興味深いのは、1970年代以降に彼が入れられていた東京拘置所や千葉刑務所での他の囚人たちのことである。

永山則夫、袴田巌、金嬉老らの有名死刑囚についての記述も杉山氏独自の見方があるが、一番興味深いのは、連合赤軍事件の吉野雅邦である。

杉山氏は、最高裁で一旦無期懲役が決まった後、1978年に千葉刑務所に入る。

そこは当時は、長期・再犯者用刑務所で、長期・再犯とは要はヤクザ者が多く、そこで彼は、若い時に知り合いだった住吉会の男に再会し、「牢名主」の元ヤクザに厚遇される。

非常におかしなことだが、そこでは元ヤクザ者を頂点としたきちんとした組織だった秩序があり、千葉刑務所は平穏だった。

ところが、1983年頃に、法務省の方針が変わり、千葉刑務所は、長期・再犯者用ではなく、長期・初犯者用になり、ヤクザ者は他の刑務所に代えられてしまう。

すると、そこは無秩序になり、イジメや喧嘩が増えていき、そこで幅をきかせるようになったのは、「チンコロ」と言われる密告者だったという。

チンコロは、他の囚人の規則違反を刑務官に密かに告げる連中である。

その一人に吉野雅邦がいたという。

彼がチンコロになったのは、自分が希望する介護に関連した工場に異動したかったようだが、杉山氏は吉野を「天性のチンコロ」と言っている。

その表現が正しいかどうかは別として、吉野の家庭や経歴を考えれば、「チンコロ」的であることはよくわかる。

彼の父親は、大企業の会社員で、吉野も当時最高レベルの都立高校だった日比谷高校に入り、在学当時は音楽部で活躍したそうだ。

だが、彼は日比谷高校としては意外な横浜国立大学に入る、と言うよりも他には合格しなかったのだろう。

そして、中国への関心から学生運動の中では、異端の中国派だった社学同(社会主義学生同盟)マルクス・レーニン主義者派に入る。

俗に「ML派のMはマルクスではなく、毛沢東だ」と嘲笑されたほど特異な中国派で、社学同が統一される中で主流派から排除されてしまい、京浜安保共闘を作り、さらに赤軍派の一部と一緒になり連合赤軍になる。

この中で、吉野雅邦は、永田洋子ら指導部が取った、中国派連合体の京浜安保共闘、さらに連合赤軍への方針に、多分唯々諾々と従ったに違いない。

だからこそ、彼は連合赤軍内部で粛清もされず最後まで生き残ることができた。

さらに、彼が死刑ではなく、無期懲役にされたのも、指導者ではなく、また連合赤軍幹部の罪状を検察に告白したからだろうと杉山氏は推測する。

それが正しいかどうかは、私には分からない。

だがそうした、組織の方針には逆らわず言われたとおりに従い、もし問題が起きた時は、「チンコロ」するというのは、日本人全体の習性であるとも言える。

企業から役所、さらに地域からボランティア・グループに至るまで、そうした性向はどこにでもあるのではないかと思う。

それは、大きく言えば、ウィットーフォーゲルの言う「アジア的共同体」の問題になるのだろうが、私はそこまでいう気はしないが、嘘ではないに違いない。

現在、大きく報道されている、みずほ銀行の問題も、同様のことのように思えてくる。

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