私も詩人だった頃

横浜の詩人廿楽順治さんたちの雑誌『Down Beat』の同人による、版画家宇田川新聞さんの版画に詩を付けた作品の発表イベントが行われた。

黄金町のたけうま書房。  

非常に面白いイベントだったが、久しぶりに私も詩人を志し、結構書いていた高校生時代を思い出した。

1960年代の当時は、普通の文学青年・少女なら、詩を読むことは当たり前のことで、少女たちは、みな中原中也のファンだった。

私は、「進んでいた」ので中原中也はバカにして、鮎川信夫、田村隆一、黒田三郎らの『荒地』派の詩を読んでいて、吉本隆明の名を最初に知ったのも、荒地派の詩人としてであった。

「エリアンの詩と手記」などという非常に甘いロマンチックな詩を書く人として好きになったのが、吉本信者になった始まりである。

その後、過激というか、ラディカルな思想家としての吉本隆明を知り、全面的な影響を受けた。

「吉本の考えがあるいは間違いではないか」と思ったのは、晩年の著作『アフリカ的段階について』を読んだ時で、これはミュージック・マガジン派の方がアフリカについての想像力が正しいと思った。

 廿楽さんのお話では、現在の日本で詩人として経済的に生きているのは一人もいなくて、谷川俊太郎でも、翻訳の収入が多いだろうとのこと。

1960年代までのアメリカでも、モダンジャズのミュージッシャンは、音楽では生きられず、かのチャ―ルス・ミンガスは郵便配達をしていたと聞いたことがある。

前衛というのは、つくづく大変なものであると思った。

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