『国定忠治』

1954年、日活が製作を再開したときの、『かくて夢あり』と併映した第1作目で、主演は辰巳柳太郎、島田正吾と劇団新国劇の総出演である。
脚本は菊島隆三、監督は滝澤英輔で、西河克己によれば、「伊藤大輔が来るとの話が、滝澤になりガッカリした」とのことだが、滝澤は後に日活に多くのものを残すことになる。

話は、伊藤大輔の『忠治旅日記』以来、多く作られた国定忠治ものだが、最も威勢の上がらない作品の筆頭だろう。辰巳も無数に演じた新国劇の行友李風作の『国定忠治』とも全く違う。
だが、伊藤大輔らが多数制作し、今日のテレビ時代劇の、悪代官、悪徳商人、貧農というのは、実は現代劇では社会問題を対象にできなかった当時の映画界の反映であり、徳川時代の実像ではないのは現在では明白である。
もし、江戸時代が不正や不公平がまかり通る時代だったら、徳川幕府はすぐに潰れていたはずで、400年も続いたのは、大変柔軟で工夫された社会体制だったからである。

貧農の忠治(辰巳柳太郎)の田んぼに、侍たちがずかずかと入って来る。
怒る辰巳に対して、「代官様が飼っている鷹がいるのだ」と言って畦に止まっている鷹を捕まえていく。
朋輩の安五郎(清水彰)と馬子もやっている忠治だが、年貢米を馬で運んでいて盗まれ、罰として庄屋の家にタダ働き同然に預けられる。
ばかばかしくて我慢できない忠治の前に、お豊の津島恵子が現れ、二人で逃げるが、津島は母親に連れ戻されてしまう。
この映画の特徴は、国定忠治の博徒になるまでが長いことで、この辺は少々退屈。
「この世は金だ」と博打場に出入りして、忠治は親分の伊三郎(石山健二郎)と知り合い、出入りで対立する親分を殺したことで親分になる。
石山の愛妾花柳小菊とのいざこざから石山を忠治は殺し、すぐに役人が捕縛に来るが、その時、百姓一揆の知らせが来て、役人は戻ってしまう。
飢饉、冷害等で、百姓は非常に困窮していたのである。
それを見て、忠治の知恵袋の日光の円蔵(島田正吾)は、「お前はついてるぜ」と言う。
一揆の混乱で無法地帯になった赤城山に賭場を開き、上がりの一部を困窮する百姓家に置かせ、忠治は大人気の大親分になる。
だが、代官が来て、「山を下りてくれ」と言われた時、忠治は「土に手をついて謝ってくれれば」と言うと、代官は手をついて土下座し、忠治は大喜びする。
そして赤城山を子分と共に下りると、関所で止められ、チャンバラになり、そこから放浪の旅になる。
8年後、円蔵と再会した忠治に、円蔵は「お前には赤城山があるじゃないか」と言い、忠治は赤城山に篭るが、子分はろくに来ず、百姓も忠治を相手にしない。
時代が変わったというが、要は代官所が、それなりの「福祉対策」を取ったので、百姓たちの困窮も解消されたのだろう。
この辺の感じは、この時代の少し前の日本共産党の山村工作隊の失敗のことのようにも見える。
最後、実家に戻る忠治だが、父親は死に、津島恵子がいて、忠治はついに彼女と思いを遂げる。
だが、津島恵子は、安五郎の女房になっていて、翌朝代官所から戻った安五郎は、忠治とのことを追求し、津島は井戸に身を投げて死ぬ。
安五郎の手引きで、代官所は忠治を捕縛し、忠治が唐丸籠で代官所送りになるとき、村は祭で賑わっている。
街道の茶屋のおばあさんの久松喜世子が見送るところで終わる。
チャンネルNECO

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