いったい、どこに感動しているのだろうか

先日の日本映画学会の例会で、井口祐介さんの『白いリボン』の発表の後、私は井口さんも触れられたスピルバーグの『シンドラーのリスト』について次のように言った。
『シンドラーのリスト』は、悪い映画ではないと思うが、横浜の映画館で見ていると、皆が泣いている。
だが、それは映画に対して泣いているのか、それともシンドラーが、ナチスの迫害に対してユダヤ人を逃がしたという事実に泣いているのか、という疑問をもった。
それは、私だけではなく、演出家の鈴木忠志先生も別の言い方で書いている。

「日本の新劇は、長い間、演劇そのものではなく、それが描いているテーマ、事実、思想などに感動させていて、演劇そのもので観客を感動させていない」と。
鈴木忠志先生によれば、演劇は演劇によってのみで感動を与えるべきで、彼によれば最後は役者の演技そのものが与えるのが演劇の感動だ、と言っている。

だから、鈴木忠志の言うことは、例えてみれば野球で言えば、試合をどのように勝つかということが問題ではなく、個々の選手、打者や投手がどのように優れたフォームで打ったり、投げたりしたかと言うことになる。
見る者には、試合、つまり主題や物語性はどうでも良いので、その結果鈴木忠志の芝居は少しも面白くないが、役者にとっては鈴木の指導は役者にとっては非常にやりがいがあるので、鈴木のところには世界中から俳優がやってくることになる。

要は、映画や演劇にとって物語性はどういう意味があるかということだが、吉本隆明は、
「劇的言語帯は、物語的言語帯の上に成立する」と言ってるように、ドラマには物語性は必須である。

映画から物語性をなくせば、1920年代の「絶対映画」になるが、それは大衆文化としての映画とは無縁になると私は思う。

実は、ある意味で小津安二郎映画は、絶対映画であるともいえるのだ。
小津安二郎映画では、特に戦後の彼の映画では、物語や主題はほとんど意味はなく、結局映像のリズムと画面の美しさしかないので、それは絶対映画に近いのであると思う。
そうしたことは、実は私だけではなく監督の篠田正浩が、松竹の副社長城戸四郎の前で披露した彼の説なのである。

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コメント

  1. ペグ より:

    えー、欧米人コンプレックスの指田某さん、
    まああんたは洋画音痴だから「シンドラーのリスト」もスピルバーグの良さもわからないだけの話でしょ。
    残飯以下な下らない日本映画しか観る頭しかないからね。日活だっけか?んなものしか見てないから頭腐るはずだわ。