『狂った果実』

1956年に、中平康監督で作られた有名な作品を私が最初に見たのは、1979年4月、蒲田日活という蒲田駅西口の飲み屋街のビルの地下にあった映画館だった。
1979年と言う年は、ロマンポルノ路線が好調で、元組合委員長の根本悌二が社長になり、第三者割当の減増資で、累積債務を清算した調子の良い時だった。
だが、ロマンポルノ路線もやや中だるみ気味で、この蒲田日活では、過去の名画を時々上映していて、それでこの高名な映画を見たのである。


正直な感想は、随分と暗い映画だなと言うことだったが、その後何度かテレビ、ビデオで見ているが、根本的な感想はそう変わらない。
それは、監督の中平が、脚本の石原慎太郎、主演の石原裕次郎らの「太陽族」に同化していないためであるのが第一である。
また、中平にしても、太陽族の不道徳性を堂々とは肯定できなかったからであり、後の大ヒット以後の裕次郎や小林旭の映画が、ひどく明るく楽しいが、完全な絵空事になったのに対して、ここではまだ現実と接点がある作品だからでもあるだろう。
それは、この直後に石原慎太郎原作で、映画『処刑の部屋』を撮った市川崑も同じで、市川は「太陽族」を冷笑している。

改めて見てみると、この映画の構造は、石原慎太郎の政治意識や対米意識を考えると大変興味深い作品である。
この映画の筋は、簡単に言えば、金持ちの息子で遊び人の兄弟がいて、同じ女性を好きになり、セックスまでする。
だが、その若い女性は、外人の妻で、その三角関係の中で、3人は破滅するというものである。
ここには、石原慎太郎の反米意識が大変色濃く反映されている。

戦前から戦中、そして戦後の時期、湘南の鎌倉、葉山、逗子一帯は、避暑地として多くの外国人がいた。
そして、その外国人と関係する日本人女性も当然いて、若き慎太郎も、その姿を目撃していたに違いない。
戦時中の反米意識を植え付けられた少年たちにとって、戦後アメリカが戦勝国で、日本のお手本になったからと言っても、おいそれと外人と付き合う女性に好感はもてなかっただろう。
それは、この『狂った果実』の頃から、『「NO」と言える日本』を書くまでに至っているのだと私は思う。
武満徹と佐藤勝の音楽が、ハワイアンやラテンを使いながらも、かなり気怠くて暗いのも興味深いことである。

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コメント

  1. ペグ より:

    Unknown
    クソみたいな映画ばかりみてんじゃねーよー

  2. さすらい日乗 より:

    変な映画じゃないですよ
    石原慎太郎が言っていますが、この映画はパリで上映されて、これを見て大変な衝撃を受け、自分の映画作りの大きなヒントになったとフランソワ・トリフォーが書いています。
    石原慎太郎は、「ヌーベルバーグは俺の映画を見てできた」と威張っています。

    私は、むしろあの映画の中平康の松竹大船流の演技術に驚いたのだと思っています。
    松竹の演技術とは、簡単に言えば新派で、演技しないように見せるという俳優術なのです。
    花柳章太郎が典型ですが、この人の演技を見ると、いつも台詞をたどたどしく言う、まるで台詞を憶えていないように。
    まさにその時に、言葉を言っているようにです。