寺山修司実験映像ワールド

Ž›ŽRCŽi@@Œ€ì‰Æ@u“c‰€‚ÉŽ€‚·v‹LŽÒ‰ïŒ©

川崎市民ミュージアムでは『横尾忠則 映画曼荼羅」をやっていて、その関連イベントして、5本の寺山修司の短編映画が上映された。

『檻囚』(1962年~69年 11分)
『マルロドールの歌』(1962年~69年 27分)
『トマトケチャップ皇帝<短縮版>』(1971年 27分)
『蝶服記』(1974年 12分)
『迷宮譚』(1975年 17分)

題名からも想像できるように、実験性が強くほとんどストリーはなく、テーマもはっきりしない。
一言でいえば、寺山版の絶対映画であり、正直に言って少しも面白くない。
なぜなら、かつて吉本隆明は、『言語にとって美とはなにか』の中で、
「劇的言語帯は、物語的言語帯の上に成立する」と書いたが、私は正しいと思っている。
簡単に言えば、物語、構成と言い換えても良いが、のないところにドラマはないという至極当たり前のことである。
映画は、映像としてのみ成立すべきだとした絶対映画にストーリーはないので、ごく短いものはありえても中・長編の作品は不可能なのであるからだ。
篠田正浩は、城戸四郎から「お前は小津安二郎をどう思うか」と聞かれ、
「小津映画は、一種の絶対映画です」といったそうだ。
小津の映画を見ていると、最後はストーリーもテーマもどうでもよくなり、端正な画面の美しさと的確なカットの切り替えられて積見重なるリズムの心地よさこそが小津映画だと思えてくる。
たしかに絶対映画だと言えるかもしれない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする