『私はシベリアの捕虜だった』

映画史では、CIAの金で作られた反共映画とされており、1952年に公開されたが、その後フィルムの行方が不明だった作品。
2012年に山内隆治氏が、米国立公文書館で発見され、その後何度か小規模で上映され来たもの。
フィルムの冒頭とラストにタイ語のタイトルがあり、これは日本で製作された後、タイでの反共宣伝に使用されたものだそうだ。
そこはサイレントで、以後は原画の日本語の台詞になっているので、これでは理解できたのかと思われるだろうが、タイには戦前から弁士(映画説明者)がいたので、多分弁士が説明して上映したのだと思う。

話は、北沢瓢のナレーションでつづられるが、満州にいた日本軍兵士は、敗戦後シベリアに送られて抑留され、強制労働に従事される。
これは明らかに国際法違反だが、一説では関東軍の幹部だった瀬島竜三が自己の釈放と引換えに、これを承諾したとの話もあるそうだ。
北沢の役は、実際にシベリアに抑留された経験を持ち、この映画の撮影も担当した藤井彰がモデルとのこと。
彼の仲間は、鮎川浩、有木山太、それに佐竹明夫に似た感じの重光彰など。
そこは、日本軍の従来の階級性が温存されていて、将校はろくに労働せずに威張っていて、そのくせ食糧を多く取る不正が横行している。
また、それに追従する田中春男のような姑息な男もいる。
その意味では、この映画に描かれた不正は、旧日本軍内部の問題だが、ソ連も、そうした階級性を利用して管理した方が楽だったので、特に改善もしなかったのだろう。
春になり、「ダモイ・帰国だ!」と喜ぶが、さらに奥地の収容所に移送される。
とそこは、「民主化」されて人民委員が管理していて、共産主義教育をしているが、委員には後に日活で活躍する近藤宏の顔も見える。
この映画のセット部分は、新東宝で監督阿部豊、撮影藤井彰で、シベリアの部分は、札幌のロケセットで、監督志村敏夫、撮影岡崎宏三で作られたそうだ。
北海道は寒いので、高齢の阿部と藤井は無理と判断されたとのこと。

岡崎の本では、アメリカの援助で作られたので、最新式のカメラもあったそうだ。
製作は、シュウ・タグチで、この人は、反共プロパガンダ映画を作った反共主義者と思っていたが、この作品を見ても、そうではないと思った。
むしろ、旧日本軍の非人間性を描いているように思えた。

最後、人民委員の伊藤雄之助の審査によって、重光彰は、反共主義者とされて帰国できず奥地の鉱山に送られてしまうが、人民委員に迎合して共産主義万歳を唱えていた田中春男も、「現地での教育に当たって欲しい」と奥地に送られてしまう。
この皮肉さは、脚本の沢村勉のものだろうか。
この人も、戦時中は、『上海陸戦隊』『指導物語』で戦意高揚を煽ったのに、戦後は反省もなく、多数の脚本を書いていたのだから。
多くは娯楽映画だったので、その点は後ろめたさはあったのかもしれない。
大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

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