『三里塚に生きる』

大島渚は、優れたドキュメンタリーができる条件として、長期取材と対象への愛を上げている。
この作品は、その二つの典型だろう。小川プロの『三里塚シリーズ』は、1960年代中頃からなので、50年近いし、監督・撮影の大津幸四郎は、小川プロの一員として撮影を担当したのだから。
私は、三里塚に行ったことはない。三里塚は、中核派と第4インター派の運動だと思っていたからだ。
友人が三里塚に行き、農民を賛美したときも、「ああそうなの」と思った程度である。
成田空港から最初に私が海外に行ったのは、1979年10月で、上海での「横浜工業展覧会」の代表団の一員で、当時成田はまだ開港から間もなく、横浜からのアクセスも悪くて成田のホテルに前泊した。
だが、ホテルに行くまでのバスの検問が凄くて、一度全員バスから降ろされ、荷物と身体検査をされてやっとゲート内に入った。
そのくらい成田空港の管制塔占拠事件の衝撃は大きかったのである。

さて、この長編記録は、三里塚の空港反対同盟の人たちの現在を追ったもので、適宜過去の映像が挿入される。
さすが小川プロで、映像は非常に豊富で、他の三里塚映画では見ていないものも多数あり、当然だが非常にリアリティがある。
今も現地で農業をやっている人たちがインタビューに応じているが、中で一番感動を受けるのは、青年行動隊長で、東峰十字路事件で機動隊員が死んだ後、自殺してしまう三の宮文男。彼は鎮守の森で首を吊ったのである。
その他に三里塚で死んだ学生もいるが、ここでは出てこない。

さらに、最後まで農家に立て籠もり、強制排除された最貧の農民だった大木よねさんの挿話は、日本の農民の典型の一つだろう。
ろくに小学校も行かずに子守などで生きて来たよねさんは、大木さんと内縁関係になり、三里塚の国有地(御料牧場だろう)で農業をしていた。
戦後、農地は国から払い下げられるが、3反部以上でないと払下げが受けられなかったので、大木さんは、別の人(教員だったS氏)の名前にして農地の払下げを受け、その後も農業を続けていた。
だが、そのS氏は空港建設の時に公団に売却してしまう。
大木よねの養子となった当時学生だった小泉氏は、裁判に訴える。
S氏は、小泉氏に、個人的には裏の事情を教えてくれたが、裁判では反対の証言をする。
だが、23年後、裁判で国、公団との和解が成立し、小泉氏は農地を再取得し、農業を今も行っている。

映画の冒頭に「ヨハネ伝」の「一粒の麦も死なずば・・・」が掲げられている。
この世の中には、誤りも、間違いのいくらでも起きる。
そして、一見すべての事態は少しも進んでいないように見える。
だが、この映画を見て改めて感じるのは、少しづつだが、世の中は変わっているのだと言うことであり、短期的に見れば間違いや誤謬はいくらでもある。だが、そのなかで次の世代は、きっと何かを学んで、世界は進歩しているはずだと言うことである。
横浜シネマ・ジャック

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