『生きてはみたけれど』

小津安二郎伝とサブタイトルされた作品で、監督は小津の助監督だったこともある井上和男。
多くの俳優、スタッフさらに関係者へのインタビューでできている。
1983年の映画なので、小津安二郎研究がまだ進んでいなかった頃なので、不十分な面はある。
井上は、小津の墓標の文字の「無」に小津の本質を見ているようだが、それは違うと私は思う。
むしろ、戦後『晩春』以降、なぜ小津は延々と女性主人公を結婚させる話を作り続けたのかをよく考えるべきなのだ。

それは、文化人類学的に言えば、普通の人間にとって結婚は、女性の交換を通じて社会を形成することだからである。
それこそは、人生最大のドラマであり、だからこれを描けば時代と社会のすべてが描けると戦後の小津は思い至ったのだろうと思える。
彼の戦時中の2回の従軍、中国での毒ガス部隊への従軍、南アジアでの戦意高揚映画製作のために訪れたシンガポールに行き、そのまま敗戦を迎えて、米映画を多数見た2回目の従軍。
この二つの海外から日本を見た経験は、小津にとって非常に大きなものだったと思う。

関係者の証言では、淡島千景の「小津先生は、人形浄瑠璃の人形遣いで、役者は先生の手で動く人形だが、そこに心がこもっていないといけない」
中村伸郎の「台詞の上げ下げ、アクセントの一つ一つに厳しくて・・」
さらに、佐藤忠男の「『風の中の牝鶏』を見た時に、不貞を行った妻と戦場から戻った夫も戦地で人を殺していて、妻を一方的に責められない」と言うのがさすがだった。
横浜市中央図書館AV]コーナー

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