弁護士は依頼者の代弁者で、正義の味方ではない

最近、大阪市の橋下市長をはじめ、弁護士の言動が問題となっているようで、「弁護士なのになぜ」と疑問を持つ方もいるに違いない。

だが、弁護士は、本来事件の依頼者の代弁者であり、正義の味方でもなんでもないことを経験したことがある。

港湾局の財産担当係長をやっていた時だから、多分1981年頃だったと思う。

某市会議員からの電話があり、財産のことである人に会ってほしいという。

市議会の控室に行くと、2人の男がいて、70歳くらいだった。

要件は、磯子区と中区の境界、当時は「横浜日赤病院の土地は、本来私の土地だから、私に遣せ」というものだった。

     

そこは、その後日赤病院が、横浜市港湾病院の運営主体となり、新山下に移転し、跡地は売却したので、今では民間の住宅等になっている。

この場所は、元々は明治時代から埋立工事を横浜市がやっていた。

当時の計画図を見ると、高級な住宅地で、きちんと区画されて海沿いのリゾートのような住宅を目指していた。

言ってみれば、千葉の浦安のようなウオーターフロントの住宅地であり、

「大正末にこんなことを考えていたのか」と驚いたものだ。

だが、この横浜市の埋立は昭和初期に中断されてしまった。恐慌と日中戦争の激化で、そのまま中途で放置されたようだ。

それを再開してのは、米占領軍である。

彼らは(PD工事と言うのだが)、占領軍の命令工事として、当時市内にあった戦災のガレキ等をこの一帯に捨てさせた。

そして、それは土地となり、横浜市のものとして竣工し、民間に売却して日赤病院になったのである。

また、今は根岸線の根岸駅の海側のエリアも、いろいろな複雑な経緯があったが、戦後横浜市が埋立して日本石油に売却されて製油所になった。

さて、問題は、「日赤病院の土地が自分のものだ」と主張するおじさんは、そのPD工事を米軍から受託した業者だったと言う。

そして、「工事代金は出せないが、その代わりに完成後は土地を上げる」という約束を米軍司令官から言われたというのだ。

随分面白いことがあるものだが、「その証拠書類はあるのですか」と聞く。

「当時占領軍の命令は絶対で、書類などはない。口約束だ、若いお前たちには分からないだろうが・・・」と怒ㇼだす。

陪席していた弁護士も、「そうだ、そうだ」と言う。

「では、書類の問題は別として、1960年代に当該地の埋立が完成した時、あなたは何故我々の土地だと訴えを起こさなかったのですか」と聞く。

すると、「その頃は仕事が忙しくて・・・」などと言う。

ともかく、その場は1時間半くらいで終わった。

その後すぐに、私はパシフィコ横浜に異動したのだが、彼らは何度も来て、自分たちの主張を繰り返したようだ。

このPD工事で根岸駅周辺の埋立ができたことについては、横浜の歴史の大家であるTさんにお聞きすると、一応その通りだが、売却代金云々は嘘に違いないとのことだった。

PD工事とは、procurement developement 工事で、米軍からの命令工事のことだそうだ。

 因みに、一緒に来た弁護士は、本当に東大卒の弁護士だった。だが、高齢になるとろくに仕事もないので、なんでもやるのではないかとのことだった。

この時、思ったのは弁護士と言うものは、依頼者の言い分をどうにでも代弁する者であり、公正な法の執行を目指す者ではないという貴重な教訓だった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする