『海街diary』

芸能界には、子供と動物には勝てないという言葉があるが、これもその典型で、広瀬すずに誰もが形無しである。

筋と撮影法等を聞き、一番嫌いな映画だと思って行ったが、それほどひどくはなかった。

だが、始まって約1時間はドラマがなく、「どうするんだよ」と思う。

長女綾瀬はるか、次女長澤まさみ、三女夏帆の3人が住む鎌倉の古い家に広瀬が、山形の田舎から来るところから始まる。

3人の娘をおいて出た父親が、別の女と暮らしていた山形で死んだというので、3人の娘が山形に行き、広瀬を鎌倉へと誘う。

そこからは日常的な描写ばかりで、一向にドラマがない。画面は美しくて結構だが、これではカンヌ映画祭グランプリは無理というものである。

叔母の樹木希林と共に、元の母親の大竹しのぶが、祖母の法事に突然に現れて、やっと劇が動く。

大竹は言う、「こんな古い家は売ってしまえばいいんじゃないの!」などと勝手なことを言い、綾瀬と大げんかになる。

綾瀬は看護婦で、有婦の医師堤真一と、地元の金融機関に勤めている長澤は、付き合っていたいい加減な男と別れ、夏帆はサーフィン店で働いていて店長と、という具合に皆に男がいるらしいが、全員幸福ではない。

この作品は、小津安二郎との類似が言われるが、その作り方は正反対である。

是枝監督は、脚本を比較的緩やかに設定して俳優に演技させたそうだが、小津は脚本ができた時が決定稿で、画面の構図、動き、台詞の上げ下げ等はすべて小津の構想のどおりにやらせたのだから。

極楽寺駅の入り口の郵便ポストが、赤い丸型なのは、小津への賛辞なのだろうか。

これを見てあらためて感じたのは、小津の戦後の作品は結構上流の人間の世界だったなあと言うことである。

この映画の世界は、あえて言うならば、山田洋次の世界に近いと言える。それだけ、日本の社会は世知辛くなって来たということなのだろうか。

風吹ジュンの食堂で近所の人気店だったが、内実は火の車だったことを長澤は融資案件の話で知ってしまう。

最後、風吹がガンで死んだ葬式で終わる。

戦後の小津の映画は、家族の崩壊を描いてきたといわれるが、それは違うと私は思う。『麦秋』で小津と野田高梧は言っているが、

「人間の輪廻のようなものを描いたのだ」と。つまり、人は生まれ育ち、愛を得て子を作り、それを育てて死に、という循環の中で生きていくということが人間の本質だということだろうと私は思う。

もちろん、1960年代までの一般の人間の生き方であり、現在ではそれ以外があることは言うまでもないが。

それは、吉本隆明的に言えば、「すべての人間は個として死に、類として生きる」といことである。

非常に気になって不快だったのは、半分くらいの場面で画面がゆっくりと動いていることである。

城戸四郎が、『醜聞』でポジ編集と聞き『黒澤明は卑怯だ」と言ったことならえば、「構図をきちんと決められていない是枝は卑怯だ」と言いたくなる。

それにしても、食事の時、箸を両指に挟んで「いただきます」と祈る仕草をやらせる愚はなんとかならならないものだろうか。

綾瀬はるかは、原節子というよりは杉葉子に、広瀬すずは、野添ひとみによく似ていたが、わざと選んだのか。

                                 

上大岡東宝シネマズ

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