津島恵子の踊りは本当なのだろうか

一昨日の土曜日、12日は弘明寺の大岡地区センターで、横浜シネマフィールド・ワークをしたところ、多くの方に来ていただきました。

当日は、ビデオを使って横浜で撮影された映画の部分上映と講演をしました。

最初は1933年、サイレント時代の清水宏監督の映画『港の日本娘』で、ここには山手の外人墓地から、半ズボン姿のオートバイに乗った江川宇礼雄が、井上雪子を乗せて走り去るシーンがあり、まるで日活の『八月の濡れた砂』でした。

戦後のでは、1957年の藏原惟繕監督の名作『俺は待ってるぜ』にも、新興ふ頭、山下、そして野毛がふんだんに出ていました。

1968年の前田陽一の怪作『進めジャガーズ・敵前上陸』には、今はない横浜ドリームランドが出てきて、今見ると結構本格的に様々な遊具や施設があったことに驚きました。

私は仕事で、戸塚区の会合として「五重塔」のホテル・エンパイアにはよく来ていたのですが、そのころは、もうほとんど遊休状態でしたから。

「五重塔」は、今も象徴する施設としてあるようですが。

中には、DVDとプレーヤーの相性の問題でよく再生できないもののありましたことは、来ていた方にお詫びいたします。

DVDの上映はいつも冷や冷やもので、相性は本当に難しいものです。

そして、新たな疑問として思ったのは、最後の美空ひばり主演の『悲しき口笛』で、ひばりの「お姉さん」的役として津島恵子が出てきます。

彼女は、中でひばりの『河童ブギウギ』に合わせて踊り、元クラシックのバイオリニストで、父親の菅井一郎の不興を買います。

                                        

だが、このダンスが非常に下手なのです。それは、本当に当時の日本のダンサーのレベルがその程度だったのか、それともわざと下手に演じているのか、という疑問なのです。

先日、1946年の大映の『七つの顔』を見ると、京都歌劇団という名の女性たちが劇場で踊っています。

これは、当時マキノ一家が京都でやっていた米軍向けのダンスホールのダンサー連中だと思うのですが、見ると非常に下手なのです。

そう考えると、1940年代の日本のバレーやダンサーの水準は今とは比較にならない程度だったのかと思うのですが。

実情はどうだったのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする