カラオケが日本人の音感を変えた

先週、日曜日に栄区のリリスで茅ケ崎のドルチェ音楽教室の発表会が行われ、先日の引地川観桜会でも一緒になった伊東明さんが出るというので、見に行く。

       

行くとまだ、子供たちのピアノの部で、どこも同じの男女の子供のピアノだが、驚くことに演奏が終わると、舞台下から花束を贈るのだ。

子供同士でやっているらしかったが、私の子供たちも近所のピアノ教室に入っていて、公会堂で発表会があったが、こんな風習はなかった。

動物園や水族館でも、動物に芸を仕込むときは、できたときに餌を与えて誉めることで芸を覚えさせるのと同じで、こうした報酬を相互に与えるのは正しいことかもしれない。

さて、二部は大人のサキソフォンのいくつかのグループの演奏で、中では女子高生3人の演奏が最高だった。

聞くと高校でブラスバンドをやっているらしく、部分的には現代音楽風の曲だったが音が非常によく合っていた。

次は、ピアノ、ベース、ドラムのプロのトリオの演奏で、その前でサックス教室の生徒が演奏するもの。

伊東さんは、『川の流れのように』を歌い上げる。

プロのバックでサックスを吹くのは気持ちの良いものだと思うが、『レフト・アローン』や『テイク・ファイブ』などの名曲が並ぶのはどうなものだろうか。

名曲は、聴く分には素晴らしいが、実際に演奏するのは非常に難しいものなのだから。

最後には、フルバンド編成のグループ演奏もあり、非常に充実した発表会だった。

総じていえば、村瀬先生の教えもあるだろうが、ここでみられるように日本人の音感は非常によくなっていて、結構聞かせるものになっている。

その一番の理由は、カラオケだと私はここでも感じたのである。2011年3月に私は次のように書いたが、間違いでないことがよく分かった。

  今日は区内の某小学校の卒業式に行った。
 教育委員会の幹部職員の一人なので、式に出て教育委員会からの祝辞を述べるのである。

 まず、卒業の6年生の入場がある。
 楽器の演奏と5年生全員のリコーダーによる『威風堂々』による入場、それも直線的に曲がるところは、角々にして歩行して席につく。
 副校長の開式の辞があり、卒業証書の授与となる。

 勿論、一人ひとりが壇上に登っての授与だが、驚くことに貰う前に全員がひと言を述べる。
「僕は環境委員をやって環境問題の重要さがよく分かりました」などなど。
 こんなのは初めて見たが、卒業生は3クラス35人弱の103名なので、ただ渡したら、確かに30分も持たないに違いない。我々のときは、小    学校でも50人クラス6組の300人、中学に至っては12クラス、600人以上もいたのだから、信じがたいほどの子供の激減である。

 私の役目の祝辞を終え、元担任教員等からの祝電の披露があり、次は「門出の言葉」これは、6年生と5年生が、共に思い出等を、歌舞伎の渡り台詞のように少しづつ言い、時には全員でシュプレヒコール劇風にやり取りするもので、最近多くの学校で行われているそうだ。
聞くところでは、玉川大学が、この演出の発生源とのこと。
 ともかく、それなりの「コール&レスポンス」劇で場内は相当に盛り上がり、泣いている女の子もいる。勿論、ばかばかしいと冷めた大人びた少年もいる。

 男も女も立派な服装である。男はブレザーにズボン、女はブレザーに縞模様のスカート、まるでAKB48のようだが、スーパーや量販店で売っているとのこと。「子供手当て」を貰っても、親は大変である。中に、幼き日の石田純一のごとき着こなしの少年がいて、母親の好みが見える。
 そして、校歌合唱。
これが本日で一番驚いたのだが、卒業生は斉唱だが良く合っていて結構きれいな響き、その上5年生は、ソプラノとアルトのパートに席が区分けされていて、途中を「ルルルー」とバックを付けて歌ったことであった。
「やるじゃないか」と思う。
 昔、テレビの芸術祭参加の『特番』で、黛敏郎企画・監修、演出藤田敏雄の作品があった。その中で黛敏郎が、「大相撲の千秋楽の『君が代』を聞くと私は絶望的になる」と言った。彼によれば、「この『君が代』は、出だしがバラバラで勝手、音程は各自それぞれで誰も他人の声を聞いていない。そして最後もバラバラで漣のように終わり、コーラスにも斉唱にもなっていない。これが日本人の音感の現状なのだ」
 だが、この日の小学生のコーラスは、段違いのレベルだった。「黛先生が聞かれたら、さぞやお喜びになったのでは」と思った次第。
 これを作り出したのは、黛先生を頂点とする、日本のクラシック音楽教育の成果ではなく、言うまでもなく「カラオケ」の普及と習熟の賜物なのである。
 今やカラオケ・ボックスは、小中学生の玩具なのだから。

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