『つかこうへい・正伝』 長谷川康夫

長谷川康夫の『つかこうへい・正伝』を読んだ。

非常に面白いが、彼の作劇術は、実は小津安二郎が、野田高梧と書いた戦後の黄金期の小津作品の作り方によく似ているのではないかと思った。

つかの作劇術は、いうまでもなく「口立て芝居」だが、本当はエチュード・システムの変形というべきものである。

エチュードというのは、スタニスラフスキー・システムの一つで、劇を作るとき、戯曲を細かい部分に分ける。

そしてその場面に類似した、個々の役者が実際に遭遇した体験、あるいは想像でもよいから戯曲の場面に近い設定を考えさせて、そこから演技をさせる。

その展開は、戯曲の通りなら理想だが、必ずしもそうでなくとも良く、ともかくその状況の感情の変化等を体験させる。

そうやって役者に劇の設定や展開を体験させ、そこから戯曲に入った行くものである。稽古中に、私は役者たちがよく言っていたのを憶えている。

「エチュードは楽しいのだが、これが戯曲になると詰まらなくなる」

 つかこうへいは、これを早稲田小劇場の鈴木忠志の演出を見て、劇作法そのものに転換させたのだと思う。

この本に書かれているが、つかこうへいの慶応大学時代の仮面舞台の演出は、このようものではなく普通のものだったようだ。

それを、つかは鈴木忠志の演出法を見、さらに早稲田の学内劇団の一つ「暫」に参加することで、「口立て」に変わってゆく。

 鈴木が、既成の戯曲のつぎはぎ・「コラージュ」で演出するようになった原因は二つある。

一つは、座付き作家の別役実が、早稲田小劇場を離れ、彼らに劇作家がいなくなったためである。

もう一つは、別役との決別を、「役者の中に、別役の台詞を生理的に受け付けない、言えない者がいるため」であったと鈴木は言っている。

これは台詞が、本来役者の体を通過しないと成立しないことを意味している。

これを作劇にまで応用したのが、つかこうへいであると私は思う。

彼は、当初ほとんど2,3の台詞しかない彼自身のモチーフを役者たちに言わせ、それを展開し発展させていくやり方で劇へと増幅させていった。

この作劇法の中心は、個々の役者の体に合うだけの台詞のみが発せられることである。それは次第に役者の体の内部にある感情や心情を掘り下げて発掘するものになっていく。

つまり、ここにきて、作劇は、つかこうへいと役者との共同作業になる。

長谷川は、何度も書いているが、この過程で常につかは、役者を罵倒し、貶し、役者はそれをじっと耐えていくだけだったとしている。その結果、時には配役がつかの一存で急きょ交代されることもあった。

だが、それでも平田満、長谷川、岩間多佳子、向島三四郎らは、無条件でつかの指示に従った。

それは、つかこうへいの能力の高さを誰もが認めていたからだが、同時にこの「口建て芝居」が、役者たちの内部を自ら発見する喜びがあったからだと思う。

また、これは学生劇団の延長線上にあった劇団暫だから可能だったことでもある。

こんな時間のかかるやり方に付き合えたのは、彼らが学生で、時間が十分にあり、「暇」だったからである。

まさに大学生時代というのは、実に贅沢な時代であったわけだが、今の大学生さんたちはお勉強でそれどころではないのだろう。

本当に大変だなと思う。

                 

『つかこうへい 正伝』を読んで、もう一つ気が付いたのは、長谷川康夫が否定的に書いている、彼の生活態度、金銭感覚である。

長谷川は、ほとんど他人の懐を当てにして生きていたような、つかの金銭感覚をあきれたように記述している。

だが、学生をはじめ、その家族の懐すら当てにして生きていくという男は、1970年代まで大学に結構いたものである。

それは、つかこうへいが嫌悪し、敵のように見なしていた左翼系の学生運動の指導者たちが皆そうだったのである。

当時、いろんな党派の連中がいたが、その指導者格になると、下部の学生からのカンパという名の「恐喝」のごとき寄金によって生きていたものである。

彼らは、自分を職業的革命家、「職革」と称し(私は食客だと思っていたが)、『革命のために命を掛けている俺に、お前たちは寄金するのは当然である」と思っていた。

つかこうへいは、

「俺はいずれ偉い劇作家、演出家になるのだから、俺を信じてついて来い」と思っていて、多分、平田満などは信じていたと思う。

いずれにしても、自分に対して信じられることは、一つの素晴らしい能力であることは言うまでもない。

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