政商たちの日本映画界・1

豊中市の森友学園の問題も、開校延期で一時休戦状態になったようだ。

この問題の始まりは、国有地の払い下げだが、日本の戦後には、もっとすごい国有地の払い下げが行われていた。

なんと今はない、日比谷の日活本社があった日活パークビルである。パークビルとはなぜかと言えば、地下に広大な駐車場を備えていたからである。ここは、戦前は日本で唯一の国策航空会社の大日本航空本社が建っていた土地の国有地だった。そして、戦時中の空襲で廃墟となり空き地であったようだ。

そこに目を付けたのが、戦前から日活の社長だった堀久作だった。彼は、「ここに占領軍のための駐車場を作る」という名目で払い下げを受けて日活パークビルを作ったのである。そして、1954年には戦時中の映画法によって、国と永田雅一の「策謀」によって無理やり合併されていた旧日活の映画製作機能の回復を目指したのである。

この時の堀久作と永田雅一の攻防も非常に興味深いものである。

「当初、約20社あった劇映画製作会社を松竹と東宝の2社に整理統合する」との国の方針を、当時は新興キネマ京都撮影所長だった永田が、

「日本最古の日活をつぶすのはけしからん」として日活存続のための運動を起こした。永田は、元は日活京都撮影所の宣伝部の職員だったので、日活への思いは強かったのである。

そして、自分の新興キネマ、東京の二流会社の大都映画、そして日活を合併させる案を考え、それが国の了解も得て、進捗しはじめた。

だが、堀もさすがに大した者で、「映画会社の統合は、製作機構の整理であって、配給と興業は関係ない」として、日活から京都と多摩川の撮影所だけは合併させるが、本社等は残す」として、その通りにさせたのである。

そして1941年にできたのが大映であり、永田雅一が責任者になった(社長は一応菊池寛にした)。

戦後もこの映画界の体制は続いたが、幸運にも日活の映画館はなぜか空襲を免れ残っていたので、日活はアメリカの西部劇等を輸入し公開して大きな利益を得ていた。

だが、堀は考えた。「自分で映画を作ればもっと儲かるのではないか」 さらに、日本の占領も終了するので、いつまでも輸入作品に頼っているわけにもいかないということもあった。

そこで、どのようにしたかは知らないが、日比谷の国有地の払い下げを受けて本社を作ったのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする