松本俊夫、死去

映像作家の松本俊夫が死去されたそうだ、85歳。

高校1年の12月、今はない大森の本屋で見つけたのが松本俊夫の『映像の発見』で、この本には絶対的な影響を受け、主な論文はほとんど暗記した。

彼は、映画理論家としては、多分日本一だと今も思う。

ただ、監督としてはどうかと言えば、少々疑問がある。それは、高校3年の秋、ある政治集団の集会で見た、1960年安保の反対映画の『安保条約』が始まりだった。

それは、総評の資金で作られた作品だったが、当時あまりに前衛的とのことで、総評の反対に会ったという問題作だったが、いささか幼稚に思えたのだ。1960年代初頭、彼は記録映画と理論活動が主だったが、1969年にATGで初の劇映画『薔薇の葬列』を監督する。

その後も『修羅』などの話題作も作り、『ドグラ・マグラ』まで監督している。

だがその後は、大学での活動と実験映画に移行され、劇映画は作らなかった。

中で、作品としては『薔薇の葬列』が最高で、そこには彼の持つ批評性、理論性等が上手く表現されていて、ユーモアもある。

だが、『修羅』や『ドグラマグラ』になると、そうした良さは見えず、難解さが目立っている。

彼のもう一つの才能として、『薔薇の葬列』の主演のピーター、『16歳の戦争』の秋吉久美子と言い、新しい才能を巧みに取り上げていることがある。

だが、『16歳の戦争』では、秋吉久美子を初めて主演で起用しながら、資金を提供した豊川市の方々との対立から、すぐには公開できず、数十年後に一般上映するなどの、興行的なトラブルもあり、そうした現実的な問題への対応のまずさも多々あった。

実際に、彼と仕事をした人の話では、他人と上手くやれないところがあったとのことだ。

言うまでもなく、東大時代は共産党員で、理論的、先鋭的な立場だったそうで、同じく東大で共産党員だった山田洋次とは面識があったようだが、「歌声運動に過ぎない」と軽蔑していたようだ。

映画においては、製作はともかくとして、公開・配給といった現実的なところでは、監督としての才能だけでは無理で、現実的な能力も重要だということだろう。

絶大な影響を与えた方のご冥福をお祈りする。

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