小津安二郎から今村昌平へ

昨日の午後は、門前仲町に行き、全国小津安二郎ネットワークの総会に出る。

総会前の講演は、日本映画大学の高橋世織氏の「小津安二郎から今村昌平への宿題」だった。

高橋氏は、知らない人だが、かなりユニークな人のようだ。内容は、普通対極と思われている小津安二郎と今村昌平が実は、強い師弟関係があり、共通点も多いことだった。

早稲田を出て、東京湾の遊覧船会社にいた今村は、黒澤明の『酔いどれ天使』を見て、映画界に行くことにする。だが、当時東宝はストライキ中で、社員を募集していなかったので、松竹に入社する。

最初に助監督として付いたのが、小津安二郎の『麦秋』で、その後大庭秀雄の『命美わし』、渋谷実の『本日休診』、川島雄三の『相惚れトコトン同志』、野村芳太郎の『次男坊』等にも付き、さらに小津安二郎の『東京物語』にも再度付いている。

こう見ると、松竹大船の最も優れた監督たちの助監督を勤めていることがわかるが、それだけ優秀で将来を期待された助監督だったことがわかる。

だが、1954年に製作を再開した日活に移籍する。理由は、当時松竹には助監督が60人もいて、このままでは監督になるのは当分先と思われたからだ。

松竹の助監督連中の日活への移籍は、元松竹大船から最初に日活に移籍した西河克己の呼びかけによるものだったが、それに当初今村は入っていなかった。というのも、西河が声を掛けたのは、敗戦直後までに大船に入った連中で、中平康、鈴木清順、斎藤武市らで、今村はそのずっと下だったからだ。

今村もすぐに日活に移籍したが、その時の給料について「今村は非常にごねた」と西河は以前言っていたが、さすが今村。

今村昌平の作品で、私はモノクロでは『赤い殺意』、カラーでは『復讐するは我にあり』が最上だと思うが、多数の優れた作品を作ったことが彼の功績の第一である。

さらに、浦山桐郎らの弟子を育て、日本映画大学に繋がる横浜映画演劇専門学校を設立したことが第二の功績である。

だが、私が一番に強調したいのは、師匠の川島雄三をことあるごとにその優れていることを言ったことだと思う。彼の『幕末太陽伝』も今村の大宣伝がなければ、今日の高評価はなかったと思う。因みにキネマ旬報の投票ではこの年の4位であり、そう高い評価ではなかった。

川島雄三と対照的な監督に渋谷実がいて、1950年代、大船では、木下恵介以上の評価を与えられていた。だが、渋谷は相当に孤独な人間で、弟子を育てることもしなかったので、晩年の『モンローのような女』『仰げば尊し』などがひどかったこともあり、今日では全く忘れられた監督になっている。

小津と今村の共通点として、意外にも作風にモダニズムがあることだと思う。戦前の小津にモダニズムがあることは分かるが、今村はと思われるかもしれない。だが、『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』の表現方法は、よく見ると非常に映画的テクニックを駆使して撮られている。

夜は、今年の夏に横浜で行うイベントについていろいろと打ち合わせをするが、連休にしては結構忙しい一日だった。

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