『昭和天皇側近たちの戦争』 茶屋誠一(吉川弘文館)

戦前、戦中の政治を考えるのには、天皇及び周辺にいた側近たちの動きを知らなくてはならない。なぜなら、大日本帝国憲法では、内閣は天皇の輔弼機関であり、それとほぼ同格に常時輔弼者として内大臣がいて、最終的には天皇の意思によって政治から軍事事項まですべての重要事項の決定が行われていたからである。

内大臣の他、宮内大臣、侍従長などもいて、彼らの職務や責任が、戦後の我々にはよく分からないので、記述がよく分からないところもある。

大日本帝国憲法下は、立憲君主制だったが、それが一番発揮されたのは、皮肉にも大正天皇下の大正時代であったようだ。

昭和天皇は、頭脳明晰で政治への意欲も十分に見えられたたので、「天皇親政」に近い政治体制を左右の者から期待されるようになる。

それに対して重臣の西園寺公望や内大臣牧野伸顕らは、憲法に抵触するとして最大限に内閣、軍部、枢密院等が協議を重ね、天皇が望むような結論を得るように努力するが、次第に天皇親政を希望する者に押されていく。

西園寺や牧野の目指すのは、英米との協調外交だったが、満州事変から満州国成立、国際連盟脱退、2・26事件、日中戦争の中で、次第に後退してゆく。

実際に昭和天皇も、従来の協調外交の限界を感じていたように見られ、近衛文麿に総理大臣をさせるまでになる

       

その大きな引き金になったのは、5・15から2・26事件だったようで、軍の急進派の銃の威力には側近たちもたじろいだようだ。そりゃそうでしょう、彼らに逆らえば銃殺されてしまうのだから。

特にそれが明らかになるのは、木戸幸一が内大臣になった1940年6月以降で、この後、木戸は他の者の意見具申等をほとんど退け、自分一人が天皇への情報提供の唯一の窓口になってしまう。

この辺になると、戦争指導をはじめ、すべての政治的指揮は、昭和天皇と木戸幸一の二人によって行われており、鳥居民が言うように、太平洋戦争の開戦と敗北の責任は、昭和天皇と木戸幸一にあるとの説も嘘ではないと思う。

昭和天皇の戦後の政治的重要な決定には、新憲法下での沖縄への米軍の長期駐留を吉田内閣の頭越しに行った「要望」も記述されていて、非常に正確だと思う。

天皇の軍事的責任についてはさらに研究したいと思う。

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