意外なゲストに驚く 「早田雄二写真展 シンポジウム」

先週の土曜日の午後は、早田雄二写真展関連イベント第一弾として「シンポジウム」にパネリストとして参加した。

私の他は、映画監督の大高正大氏、写真家の成原満氏で、さらにメークアップについてゲストとして中野由紀子さんからもご助言をいただいた。

途中、大高氏が、我々は実は生前の早田雄二さんを知らないのだが、

「ご存知方はいられるでしょうか」と聞いたところ二人の方から挙手があり、お一人は1960年代中ごろに早田さんの六本木の事務所にいたIさんという女性。もう一人は早田さんのお孫さんの橘さんだった。

早田雄二さんの本名は橘雄二郎なのである。

私は、まず早田さんの作品の三つのタイプについて話した。彼は戦前は松竹蒲田撮影時の出入りしていた(彼の父親が蒲田の機関誌『蒲田』をやっていて、それが『映画之友』になった)ので、アメリカ映画のスター写真を模範にして作品を作った。1960年第二は古臭さの代名詞だった松竹は、1920年の創立時は、女優を使う、旧劇(時代劇)は作らず現代劇を作るという意図で、極めて新しいスタジオだった。

戦後の映画全盛時代のものに多いのは、スターたちに映画のある場面を想定させて撮ったようなもの。

最後の1970年代以降では、各スターの意思、隠れた性格のようなものを表現したもの。

この三つつについて話したのち、大高氏から、彼が高倉健主演の『居酒屋兆次』でのカメラマン木村大作氏とのエピソードが披露された。

木村大作がほとんど一発撮りだったことに対し、私は小津安二郎は、何十度も俳優に演技させたことに絡めて松竹の「演技術」について話した。

それは、新派の演技術の影響を強く受けたもので、要は演技しないのが松竹流の演技なのだ。

新派の花柳章太郎の舞台の演技を見ると、台詞を憶えていないようにたどたどしく言うのである。また、殿山泰司も、俺はこんな芝居は本当はやりたくないのだ、というようにいやいや台詞を言う。

よく考えてみれば、実際に人間のやり取りは、そうしたものだから、真山青果の演説劇でもない限り、人間はいつもたどたどしく、また嫌々会話をしているものである。

そこに松竹の演技論はあり、かつてフランソワ・トリフォーが日活の『狂った果実』見て驚嘆したのは、北原三枝や石原裕次郎の演技だったはずで、石原慎太郎がえばることではないのである。

監督の中平康は、松竹大船の助監督だったので、彼の中にも、この芝居させない演技術があったのである。

さて、1964年の東京オリンピックの頃、Iさんは事務所にいたそうだが、早田さんは、スターたちと本当の友人、遊び仲間だったので、ほとんど仲間内のスナップ写真のように作品をさっと撮っていたとのこと。

パ-ティー、ドライブ、ゴルフ、マージャンなど遊びの達人で、そうした中で優れた作品を作ったのはやはり凄いと思う。

成原さんからは、いつも最新の機材で撮っていたことが言われ、当時の機材を見せてもらったが、ストロボの同期なのは相当に高度な技であるようだ。

最後に私は、早田雄二、秋山庄太郎、大竹省二らは「婦人科カメラマン」と言われ、土門拳や木村伊兵衛らの社会派からよりは少し下とされていたが、今見るとそんなことはなく、作品の向こう側に時代と社会が見えることを言った。

写真や映画というものは、いくら作者たちが時代や社会と無縁の作品を目指していても、必ず作品の裏に時代や社会を反映してしまうものである。

そうした観点で、8月19日の午後2時から、ニュースパークの会議室で、「映画の中の横浜 横浜で輝いたスターたち」をします。

ぜひ、見に来てください。料金は無料で、会場への参加料で入れます。

どうぞよろしく。

帰りは、横浜市の小林君と一緒に、医大通りの隼で飲むが、途中の道は、花火大会で大変な人出。

経済局で花火大会を担当した小林君とは、花火大会が、警備と清掃で数千万円かかり、主催の横浜商工会議所は半分以下しか負担できず、横浜市が数千万円以上補助しているのに市民は知らないことについて話す。

それにしても、なぜ花火大会に人は多数来るのだろうか。

昔の人に聞くと、「空襲は花火大会よりもはるかに奇麗だった」そうだ。

花火大会が空襲の代わりだとすれば平和の象徴としてこれもいいのではないかと、同じく戦争反対の小林君とは同意したのだった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする