「とうようズ・デイ2017」

2011年に中村とうようさんが亡くなられて6年、今年は7回忌で、SP盤を最高級の蓄音機のクレデンサで聞くイベントが行われた。

話は、湯川れい子さんと田中勝則さん、元ポリドールレコード役員でとうようさんの遺言執行人の折田育造さん。最後には、会場に来ていられた北中正和さんも出て、1970年代のミュージック・マガジン社の話も。

今回は、田中さんが書かれた、とうようさんの評伝『中村とうよう 音楽評論家の時代』についての話が中心になり、またとうようさんが持っていたSPレコードについてのエピソードも。

もちろん、とうようさんもクレデンサを所有していたが、それで掛けるのは実はどうでもいいような盤で、本当の愛聴盤はダイヤモンド針のSPプレーヤーで聴いていたとのことで、田中さんによれば、とうようさんが持っていた本当のピカ盤のコレクションを鉄針のクレデンサで聴くのは今夜が最初になるとのこと。

本当に、コレクターというのは面白い。とうようさんは、自分が持っていない貴重盤を他人が持っているのを知ると非常に怒って、店に電話して田中さんから買い戻させ、自分が買ったというような、本当かねと思う話も披露された。

最初は、SP初期のラッパ録音時代のビル・マレーの歌から。

1920年代に、電気的増幅が発明され、ラジオ、映画のトーキー化と同様に、レコードは電気録音方式になり、音質が格段に良くなる。また、とうようさんが持っていたという、エジソンの蝋管録音によるバンジョーをメインとする楽団の曲も掛けられるが、これは当時としては非常に長く4分間もあった。

この辺までは、歌手や演奏者たちは、大道や寄席の芸人たちで、非常に大衆芸能的な色彩が強い。

湯川さんと田中さんからは、とうようさんの大学時代から上京しての銀行員時代から、音楽評論家になった経緯の話。

やはり、湯川れい子さんも、「とうようさんはラテン音楽の人」だと思っていたそうだ。

その理由の一つは、ジャズには戦前からの大評論家連中がいたことだとのこと。

その一つが、ホット・クラブ・ジャパンの例会の椅子の座り方の序列で、野川香文さんがトップ、牧紀雄、植草甚一、野口久光、油井正一等の順で、福田一郎さんに連れられて行った当時19歳の湯川さんは、一番ビリで、タバコを吸ったら上の方々から睨まれたので、二度と出なかったとのこと。

まあ、そうだろうなあと思う。

SP盤を聴いて凄いと思うのは、特にボーカルが良いことで、柔らかくて非常に歌の意味がよくわかるのである。

一つには、針の針圧が高いこともあると思う。LP以後のダイヤモンド針では、1グラム前後だろうが、SPの鉄針では、20グラムぐらいではないかと思われ、レコードの溝にきちんと接触し、音を完璧に拾えるのだろうと思う。勿論、そのために溝は削られて行き、何度も掛けられた盤は、ズル盤となって著しく音質が低下してしまうのだ。

最後は、晩年のとうようさんが一番愛聴した『ラ・パロマ』をスーザ・バンドで。

この『ラ・パロマ』は、中村とうよう説では、世界最初のポピュラー音楽のヒット曲であるそうだ。

確かにその通りで、この曲は、ビゼーの『カルメン』や、チャイコフスキーの『バイオリン協奏曲』にも影響を与えていると思うが、この辺は、ポピュラー音楽がクラシックに与えた影響として桐朋音大楽理科卒の関谷元子さんにぜひ解明してもらいたいところである。

今回田中勝則さんが出された評伝『中村とうよう 音楽評論家の時代』については、私のことも出てくるので、別に書く。

アイルランドやイタリア音楽の第一人者山岸伸一さんと久しぶりにお会いしたが、山岸さんは明日四谷の東長寺で行われる法要にも出られるとのこと。

六本木インターナショナル・デザイン・リエゾン

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. 月の罠 より:

    今から20数年前に、一度だけとうようさんと電話で会話をしたことがあります。
    ミュージックマガジン編集部にアジアの音楽に強いライターさんを紹介してほしいと電話したところ、とうようさんが「女性にいいのがいる」と。つられて「女性ですか」と言うと、「女じゃダメか?」と、それで紹介されたのが関谷元子さんでした。当時、POP ASIAの編集長してらして、お会いするとたまたまご近所とのことで、地元の中南米系のバーを紹介しました。ある夜そこでバッタリ。とても明るく美しい方で、地元の方とサンバかなにかで楽しそうに踊っていました。

  2. 関谷元子さんは、桐朋音大楽理科を出て、パイオニアに入った方です。
    卒論では、当初はテレビでやっていたテレビ映画『ルーツ』の解説を書いていた中村とうようさんのところに行き(行くまで全く知らなかったそうです)、「アフリカ音楽について書きたい」と言ったところ、「わかった」と言われました。
    しかし、渋谷の事務所に数週間後に行くと、「これをやれ!」と言われ、アフリカではなく大量のキューバ音楽のカセットを渡されたそうで、結局それで卒論を書いたそうです。関谷さんは、学生時代は学生演劇に出たこともあるそうです。

    その後、マガジンの編集部や一時は中村とうよう事務所にもいて、東アジア音楽の専門家にになりました。私は、1980年代末から横浜でのイベントに協力してもらっており、今年の1月にも南区での音楽イベントに参加してもらいました。